一週間 ――原発避難の記録 第8回

木場尚子さん(福島県浪江町大堀)

三月一二日

 朝ごはんは、8時頃、前日に多めに炊いておいたご飯を、納豆と卵で食べました。食べ終わる頃、隣組の組長がやってきて、「やすらぎ荘(老人いこいの家 やすらぎ荘)に避難しろって区長(行政区長)から連絡があった」と言いました。「理由は何だかわかんねぇけど、防災(無線)のも鳴ったから、地震かなぁ。どうだか聞いてないんだけど」と。
 この頃、1週間前にこの大堀地域の避難訓練があったばかりなので、「まさかこんな風に本当に避難するとは思わなかったなぁ」と言いながら、組長は組の住宅を見回りに行きました。
 やすらぎ荘は、家から500メートルほど離れたところにあるのですが、私は夫を軽トラに乗せて、やすらぎ荘に向かいました。息子は、自分の車に載せて向かいました。軽トラの荷台には、長座布団1枚、薄い毛布4枚を載せてシートをかけました。
 やすらぎ荘には人が結構集まっていました。ご飯を用意しようということになり、ガスコンロ4台と大きなアルミ鍋を使い、持ってきてくれた米を使ってご飯を炊きました。私は女性たちに「はい!おにぎり作ってー!」と言って、みんなで炊き出しが始まりました。たくあんや自作の漬物を持ってきた人もいて、それを切ってもらって……と作業をしているうちに、さらに人が集まってきました。双葉町、大熊町からきた人もいて、「こんじゃ米足んねぇくなる」と思いました。そこに役場の人がきたので、同じ組の女性が「米持ってきてー」と頼んでいました。
 この頃、山麓線から114号線に出るのに、大渋滞で身動きが取れないほどだったと話を聞きました。でもこれだけやすらぎ荘には人が集まったこともあり、「避難訓練が生きたねぇー」と言い合ってもいました。
 そんな時に、今度は夫が「おれトイレ行きてぇ」と言い、「やすらぎ荘のトイレ使ったら?」と答えると、「やすらぎ荘のトイレには入りたくねぇ」と言いました。家まで歩いてでも行かれる場所だったし、自宅なら洋式で安心して用を足せるだろうと思い、2人でゆっくり坂を登って高台にある家まで戻りました。
 夫は家の外に備え付けてあったトイレに入り、用を足している間、私はその外で待っていました。「もう終わったー?」と声をかけ、「終わったー」と夫がドアを開けた瞬間、「バーン!」という大きな音がしました。その音がした方向、南東の方をふと2人で見たら、白い煙がわーっと真っ直ぐに上がりました。そしてスーッと消えました。「ああー、原発、爆発したぁー」と2人で理解しました。とっさに携帯の時間を確認すると、午後3時37分。あとでわかったのですが、原発1号機の爆発は、午後3時36分でした。30秒程度、時間に差があったのは、爆発して聞こえるまでの距離感だったのだろうか、と思います。
 「みんなに言ってくっぺ」と、夫とやすらぎ荘に慌てて向かい、近くにいた人に「爆発した」と言いました。やすらぎ荘では、同じ組内の山田電気さんが、自家発電機を設置してくれて、テレビが観られるようになっていましたが、テレビでは爆発したことは全くやっていませんでした。
 そんな時、やすらぎ荘にはさらにどんどん人々が集まっていました。みんなが原発が爆発するのがわかって逃げてきたんだ、ということは私は全く頭にありませんでした。とにかく11日から停電で、みんなは情報もわからずにいたからです。私自身が爆発を目の当たりにした、という情報だけでした。
 ちょうどやすらぎ荘に戻ってほとんどまもない頃、爆発してから30分程度経った頃に、白い防護服を着た人が1人、何かを測りながら、「ここは35あるな」と言って、それから何も言わずにすぐに帰って行きました。私は、「なんでこんな格好しているんだろう?」「35あるってなんだろう?」と思いました。
 私は爆発をテレビでやらないなぁ、と不思議に思いながら、そこにいましたが、2時間ほど経って、もうあたりも暗くなってから役場の人から連絡があり、「ここに居てはダメだから、やすらぎ荘にいる人は、やすらぎ荘のマイクロバスで津島の高校(浪江高校津島校)に行くように」と言われました。
 バスで移動したら、何かあっても戻ってこられないな……と考え、軽トラの荷台に積んであった荷物を息子の車に積んで、マイクロバスの後ろについて津島に向かいました。どうせ2〜3日で帰れるだろうとその時は考えていました。
 津島高校についたのは、午後7時頃だったと思います。それほど渋滞はありませんでしたが、食べ物がなく、お腹がすいていました。津島高校の2階のひと教室を、やすらぎ荘からきた人にあけてあげてください、とアナウンスがありましたが、教室も体育館もどこも人でいっぱいでした。私たちは教室に入ることができましたが、廊下にもたくさんの人がいました。廊下や体育館にいた人たちは、とても寒かったとあとから聞きました。
 自分で持ってきた長座布団や毛布は、体の悪い夫のために用意したようなものだったから、何か借りられるかと思いましたが、津島高校では何も渡されませんでした。

 

三月一三・一四日

 津島高校に行ってから初めての朝、「おにぎりがきましたー!」「パンがきました!」とアナウンスがあり、そのたびに言われた通りに並びましたが、列の前で「終わりました」「終わりました」と言われ、私たちはおにぎりもパンももらえませんでした。でも、教室に戻ったらもらってきた人がおにぎりを半分分けてくれたり、食パンを分けてくれたりしたので、ほんの少しだけ口にすることができました。
 そんな時、友人の鵜沼久江さん(双葉町)が、誰か知り合いいないか、と探して回ってくれていて、私を見つけてくれました。鵜沼さんは、一緒にタバコの葉の収穫を手伝ったりするような仲でした。鵜沼さんは、体育館のほうに避難をしていました。鵜沼さんは「私ら、双葉に行ってくんだ」「牛に餌やんだ」と言いました。
 私も飼っていた犬のことが心配だったので、「じゃあ、私も一緒に犬を見に行く」と言うと、「いや、旦那のそばにいろー。私が犬に餌やってくるから、ここにいろ」と鵜沼さんは言いました。
 また、私たちが食べていないのを知って、「津島の活性化センターのほう見てくっから」と言ってくれました。
 戻ってくると、「3人くらいだったら、通路だけど入れそうだったし、食べ物もあるから、そっちに行ったほうがいい」と鵜沼さんは言いました。私たちの場所を確保してくれたのです。鵜沼さんは、私たちを活性化センターに移動させてくれたあと、「んじゃ、行ってくっから」と言いました。私は「気をつけてな、犬、お願いします」と伝えました。鵜沼さんとは、それっきり別れた状態になりました。
 そのうち、活性化センターにいた人たちも、「親戚のところさ行くだー」と言ってどんどん離れていきました。入った時は、入り口付近だったけれど、13日のうちに奥に移動することができ、ストーブのそばに陣取ることができました。ストーブのそばは、あたたかかった。鵜沼さんのおかげで、食べ物にも困りませんでした。津島高校には食べ物が足りていなかったけれど、活性化センターのほうは、食べ物がありました。
 その頃、役場の職員さんが80歳くらいの女性を捜し回っていました。「家に帰んだー」と言ってどこかに行ってしまったと話していました。そのおばあさんがようやく見つかり、職員さんが私に「おばあさん、そばに置いてくんねぇか」と言いました。「いいよー」と言い、夫も和ませるためだったのか、80歳のおばあさんに「おねえさん、かわいいねぇ」などと言いました。おばあさんは「生まれて初めてかわいいって言われた」と喜んでいて、家に帰りたいと言わなくなり、そこから2晩、一緒にストーブのそばで過ごしました。そのおばあさんは、施設が見つかってその後、そこへ行ってしまいました。
 その役場の人も、私たちと知り合いだったので、その後、津島から移動する時もずっと一緒でした。体育館でもずっとそばで寝ていましたので、安心しました。

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 第7回
一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

 
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