一週間 ――原発避難の記録 第8回

木場尚子さん(福島県浪江町大堀)

三月一五日

 朝から霧雨が降っていました。食事をもらうために、代表の人が活性化センターの外で並んでいたところ、役場の人が「雨に当たんねぇで中さ入れー!雨に濡れるなー!」と大きな声で言って、みんなを中に入れました。霧雨程度の雨だったのに、「当たるなー!」と強い口調で言っていました。その必死さが、私にはよくわからなかったので、不思議に思っていました。あとから、放射能の恐ろしさを知って、この時のことを思い出して、ようやく理解できたんです。
 朝食のあと、役場の人は「ここはダメだから東和(二本松市)に行ぐ」と言いました。活性化センターにはマイクロバスも何台かあって、私たちは3台目か4台目に乗ることになりました。息子の車はガソリンもあまりなかったので、津島に置いていくことにし、息子と、持ってきた荷物(長座布団、毛布、位牌、家庭薬など)を手分けして持ってバスに乗りました。
 二本松市の東和に到着すると、浪江町の役場の拠点がもう出来ていました。そこで、私たちは針道の廃校になった小学校に割り振られました。どこにあるのかわからなかったので、役場の人のあとに続いて歩いて行きました。まだ暗い時間ではありませんでした。
 廃校は、本当に古い建物でした。体の弱い人や年寄りは体育館に、若い人や元気な人は階段を登って上の教室に、ということになり、私たちは体育館に行きましたが、隙間風が入ってすごく寒かったのを覚えています。1人1枚の毛布が配られ、床に1枚の毛布を半分に折って敷き、半分を体に巻きつけて寝ましたが、寒くて寝られませんでした。夫は、家からの長座布団と毛布4枚、配られた毛布1枚すべて使っても寒かったようで、私のたった1枚の毛布も引っ張ろうとしていたほどです。ストーブもなく、トイレも外でした。
 床にダンボールを敷くようになったのは、4日ほど経ってからです。毛布の入っていたダンボールをみんなに配って敷きました。その廃校には、体育館には100人ほど、教室にも200人ほどいたと思います。そんな時、どこから聞きつけてきたのか、体育館に100歳を超えたおばあちゃんがいるということで、テレビ局が取材にきて、放送されました。そうしたら、「そんな寒いところに年寄り置いて」とクレームがきたらしく、おばあちゃんは体育館から教室に移動していきました。

 

三月一七日以降

 針道に行って2日ほどしてから、「みんな並んでー!」と言われ、スクリーニングされました。頭から服、靴の底までやり、夫と息子と私、そして役場の男性1人の4人がひっかかりました。「あー、やっぱり外にもいたからなぁ」と思いました。やすらぎ荘に戻った時、中には座るところもなかったので、外にいたのです。
 役場職員の男性に車に乗せてもらい、二本松市の福島県男女共生センターの駐車場にある自衛隊のテントの中で、シャワーを浴びました。その時、「今まで着ていた服は全部捨ててください」と言われ、そこで用意してあった服はもらえたのですが、靴はなく、帰りはスリッパでした。お風呂に入れなかったので、正直、サッパリしたなと思いました。
 スクリーニングされた時、「数字はどのくらいですか?」と聞いたのですが、教えてくれず、「うん、機械が動いたから」とか「放射能がくっついてるから」としか言われず、なんだか少しバカにされたような気持ちがしました。あとでやすらぎ荘にいた人に聞いたら、ひっかかっていた人がけっこういたようで、郡山市に避難した人も、郡山でシャワーを浴びたと話していました。
 25日頃だったか、「浪江町に行くけど、あと1人は乗れるけど、誰か車乗って行く人いっか?」と体育館内の人が言っていました。息子に「車持ってくっか」と言うと、「持ってきて」と言うので、鍵を預かり、その人にお願いしました。
 私は津島でおろしてもらい、停めたままだった息子の車に乗って二本松まで戻りました。ガソリンは少ししかなく、ハラハラしましたが、なんとかたどり着けました。避難したばかりの頃は、スタンドに行っても「いわきナンバーは入るな、放射能が入ってくるから」と言われ、給油できなかったようです。少ししてから、大丈夫になったけどね。
 27日か28日頃、今度は息子と2人で、浪江町に行きました。もう入れなくなるという話を聞いたからです。家に着いて、一番心配していた犬2匹は紐が絡まってやっと生きていたような状態でした。連れて帰る前に、残してあったお風呂の水で犬をシャンプー・リンスして、ぶるぶるふるえる犬をバスタオルで拭き、軽トラックに乗せて連れていきました。
 この後、犬たちは、日中はグラウンドのところに縛り、夜は軽トラックの中に入れ、の繰り返しです。犬だけ連れて、あとは何も持ってきませんでした。
 この頃、体育館の中に50人くらい体の不自由な人がいました。役場の人から、お世話を手伝ってほしいと言われ、息子と、私と、女性2人とで、体育館内の体の不自由な人たちのお世話をしました。寝たきりの人もいたので、周りを毛布で囲ってもらい、私が手袋をかけてオムツを取り替えてやったりお尻を拭いたりしました。そのおじいさんは、朝・昼・晩、3回取り替えたりもしました。

 

*****

 

 その後、針道から猪苗代湖の民宿、福島市の仮設住宅を経て、現在、南相馬市原町区に住んでいます。平成26年に実家の父が亡くなり、同じ年の11月に夫が亡くなりました。亡くなる前日、「苦労かけたなあー。世話になったなぁ」と言ってくれたのが、私には救いです。
 私自身も、ストレスから出血性十二指腸潰瘍になったり、股関節の手術をし、人工股関節にするなど、さまざまなことがありましたが、その後、介護の勉強をし、介護職に就いています。

 

(第8回 了)

 

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 第7回
一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

 
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木場尚子さん(福島県浪江町大堀)