一週間 ――原発避難の記録 一週間――原発避難の記録 第3回

Mさん(女性:仮名/震災当時49歳)(帰還困難区域)

 三月一二日 早朝

 次の日の朝早く、明るくなってきて「さて、どうする」ってなったときに、車の窓をトントンとする音が聞こえたので振り返ったら、上の子が立ってたんです。

「あ~、どうしたの?」って。

 話を聞いたら、中学校のときからの同級生のお母さんが、たまたま、いわきに車で買い物に来ていたんです。その友だちも一緒にいて。「それなら私も乗せてってくんない?」って。それがなかったら、いわきの高校で居残りになってましたね。

 お願いして一緒に帰ってきたそうです。6国(ろっこく=国道6号線)がぼこぼこになってたので、普段は1時間くらいで行けるのに3時間くらいかかったって言ってたかな。暗くなって富岡に戻ってきたみたいです。

 でも自宅に行って真っ暗だったと。どこに行くっていう貼り紙もなかったので、私も、書けばよかったなあって思いましたけど、とりあえず富岡第二中学校と富岡第二小学校を一緒に回ったって。そのときは、学校ではもうビスケットを配ったりとかが始まってたみたいです。私たちはいなかったので、一晩、お友だちとそのお母さんと一緒に、お母さんの車の中で、セブン−イレブンの駐車場で一緒にいてくれたっていうんです。たぶんその子の家は家でなにかしてたんでしょうけど、詳しくは聞かなかったですね。

 でも、目と鼻の先にいたんですよね。携帯がつながらなかったから連絡がとれなかったんです。

 それで娘は、明るくなってからもう一度自宅の方に来たときに、私たちの車を見つけたみたいで。私の方もすぐに避難できるように、駐車場の端っこの道路の方に向けて停めてたんですよ。それで見つけられたんだと思います。

 その頃に、避難しなさいという防災無線があったんです。娘がコンコンってやる前くらいに。それで、「娘はいないけど、どうしたらいいか?」って考えていたところだったので、すごいラッキーでした。本当に娘と無事にあえて、ホッとしました。感謝しました。

 それで一度、自宅に急いで戻って、2~3日分の着替えとか防寒着とか、カセットコンロとボンベ、保温ポット、湯飲み茶碗1個、缶詰とかを車に積んで、通帳とか保険証書とか、そういったものも袋に一式入れて運び出しました。保温ポットとか茶碗1個は、なんでですかね。保温ポットは普通の電気ポットです(笑)。水が飲めないと思ったのかな。

 防災無線は「川内村の方に避難するように」っていう放送でした。ちょうど夫の親戚が川内村だったので、それであれば向こうにとりあえず行けばどうにかなるかなって思って。

 そのときは、富岡町1万6000人の人口の自治体が逃げろって言ってるんだから、「これはもう原発で何かあったんだ」って思いましたね。役場の人は顔見知りもいますし、その人たちが避難って言ってるっていうのは臨場感があるというか。これはただ事ではないじゃないかって。だから、子どもたちは車の外には出さずに、私と夫だけで荷物を運び出しました。

 だって、逃げろっていう放送を聞いたのは初めてだったし。放送では原発のことは言ってなかったように思いますけど、夜中に大熊でも3キロ圏内が屋内退避になって避難になったのを車のテレビで見てて、だんだん円が広がってきたので、「ただ事じゃないんだ」って。

 一刻も早くって思ってました。

 だから、「ああ、もう帰れないかな」っていうのは横切りました。もうムリかもって。

 家を出たのは、朝の7時半くらいだったと思います。家の鍵を閉めたときには、「お家さん、今までありがとう、もう帰ってこられないかもしれない、ごめんね」っていう気持ちで、鍵を閉めてきました。

 子どもたちは、何が何だかわからなかったと思います。旦那も、「うわー、大変なことになったなぁ」とは思ってたと思いますが、もう帰れないっていうことまではなかったと思います。その時は、誰かひとりがそういうことを話し出すと動揺が広がるかと思ったので、そう思っていることも話さなかったんですよね。

 車で走りだしてから、山麓線と交差する十字路で防護服を着ていた人たちを見かけたので、私の「ただごとではない」っていう不安は確信に変わりました。

 その時は防護服っていうのは知りませんでした。ただ、白装束だって思ってました。でも、あの白いのは放射能を遮断してくれるんだって思ってました。「ああ、もう放射能が降り注いでいるんだ」って。だから車も窓を閉めて、内気循環にして、エアコンも止めてました。

 川内村へは2時間くらいかかったと思います。川内へ向かう道はずっと数珠つなぎになっていて、すごい渋滞でした。横道から入ってくる車が待ってたり、入れなかったりしてました。

 

 三月一二日 川内村

 川内村の親戚の家に着いたのは10時くらいだと思います。

 川内は電気もついてたし、水道は地下水だったので問題ありませんでした。到着してすぐ、お昼ご飯を食べられたのは覚えてます。

 でも、先のことはまったく考えなかったですねぇ。ぼーっとテレビ見て、何も手につかずにいました。

 川内の人たちはスーパーも近くにないので、食材を冷凍してるものが多いんですね。だから2、3日はなんとかなるかな~って。余震も怖くて。親戚の家も古いので、瓦が落ちてきたらどうしようって。でも昨日の今日なので、この先どうしようとか、まだ考えられませんでした。

 1号機の爆発はテレビで見ました。福島中央テレビでしたっけ、一社だけが望遠カメラで捉えてたんですよね。「あれ~、昨日の今日で?」って。

 家族も、ただただびっくりしていました。キノコ雲みたいになって、うそだろ~って、信じられない感じでした。

 原発の見学に行ったときに、あのブルーの建物の絵がコアラだかパンダだかに見えるんですよって、バスガイドさんが言ってましたよ。1号機の上の角だったかな。

 エネルギー館でも、コンクリートが10cmとか、格納容器が安全ですとか言ってましたし。だから爆発したのを見たときは、「信じられない」っていう気持ちでしたね。

 でも放射能がどう飛ぶとか、どっちの方に風が向いてるとか、そんな知識はないじゃないですか。避難する時に防護服見て、放射能が飛んでるんだって思ったけど、あの映像とは結びつかないんですよね。

 だから、爆発したからっていって、動かないといけないっていうのは、なかったですねぇ……。

 第一、どこに行ったらいいのかっていう知識もないじゃないですか。SPEEDIとかの情報があれば、風上に逃げなきゃとかあったかもしれないですけど、どうなんのこれからっていうだけで。次の日もそんな感じでした。

 でもその頃から、富岡町から避難してきた方に向けて、自宅に提供可能な毛布がある人は避難所に持ってきてくださいとか、お米を供出願いますっていうのが、川内村の防災放送で流れてました。親戚の叔母も、避難してきた富岡町民のお世話をするために、夕方から近くの避難所になってた集会所に行ってました。

 たしか12日の夜には、避難所でヨウ素剤が配られていたと思います。川内村の体育館だったと思うんですけど、40歳未満の女性とか子どもたちに配られていて、私も子どもたちの分をもらいました。配るっていう連絡がきたわけじゃなくて、たまたま体育館に行ったら配ってたんです。

 誰が配ってたのかは覚えてないですけど、名簿に子どもの名前と生年月日を書きました。

 でも、本当に飲ませていいのかなっていう気持ちと、飲ませるとしても今ではなくてもっと状況が酷くなったときに飲ませようという気持ちもあって、飲ませなかったです。

 結局、知識がないじゃないですか。1回飲んだらちょっと間隔あけないとだめとか言われると、主婦感覚で、じゃあとっておこうって。それで、そのときは飲ませずに取っておいたんです。

 ヨウ素のことは、10年くらい前でしょうか、地区の中で、同じ年齢くらいの子どもを持っていた人たちが集まってたときに、原発の事故があったらどうするんだ、小さい子どものためにヨウ素を準備してないでどうするんだっていう話をしていた人がいたんです。そのことを思い出しました。

 その晩は、こたつで寝ました。

 

 三月一四日

 13日はとくになにもしてなかったです。家でテレビを見たりしてました。でも家にいても何もわからないから、情報収集しようと思って役場や体育館に出かけてました。

 二度目の爆発の前の日か、朝だったと思うんですけど、13日と同じように情報を集めようと思って外を回っていたときに、体育館で私と同じ職場の人に会って、私の会社(スーパー)の研修所が従業員向けの避難所になるっていう話を聞いたんです。もう受け入れはじめたらしいよって。「ほんと?」って。私は川内村以外、近隣に頼れる親戚もいないし、ここしかないって思いました。

 そうしたら、3月14日の午前11時に、また原発が爆発したのを家のテレビで観たんです。11時1分でしたよね。時間、覚えてます。

 この爆発を見て、私と主人はいいけど、この先の人生は子どもたちが第一だから逃げましょう、研修所に避難しようっていう話になったんです。速攻で決めました。

 それで、お昼を食べて、すぐ出発しました。

 避難する前に、お世話になった叔父と叔母に、「私たちは避難しますが、一緒にどうですか」って誘ったんだけど、「炊き出しの手伝いがあるから」という感じでした。地域の関係もあるから「私たちだけ先に行くわけにいかないから」っていって、残ったんです。「じゃあ、すみません、私たちは先に行きます」って。

 私たちだけ、というのは、あまりいい気持ちではありませんでした。見捨てたわけではありませんが、後ろ髪を引かれるというか。

 昼に出てきて、午後2時か3時には研修所の近くに着いてました。

 その途中、川内を出たら、ダーッて、メールが入ってきたんですよね。電話が通じるようになったんです。

 それで研修所に電話したら、管理者の人にスクリーニングをしてくださいって言われたので、確か郡山総合体育館だったと思うんですけど、スクリーニングして、オッケーになって、それから研修所に入ったんです。

 スクリーニングっていうのがあるのは、事故の前からなんとなく聞いてました。知り合いに原発の人もいるから、原発に入るときと出るときはそういうのをするとか、放射線管理手帳っていうのを持ってるとかっていう話を聞いてました。

 だから、こういう時だから受け入れる側もしてほしいって思うだろうし、自分も大丈夫だっていう証明がほしいというか、理に適ってるなっていう感じですね。

 研修所は、一番多いときには100人以上の人が入ってたと思います。私たちが入ったのは3番目くらいでしたね。それからどんどん避難してくる人が増えてきて、最後は会津の方の旅館も確保して、今日からは会津に行ってくださいっていうようになっていたような記憶があります。

 私たちが入った時にはもう布団が山積みになってました。部屋は会議室ひと部屋をふたつに区切って、私たちのほかにもうひと家族が入っていました。ぜんぜん知らない人です。

 部屋は布団が8枚敷けて、真ん中に通路ができるくらいのスペースがありました。郡山は電気、ガス、水道も通ってて、お風呂は男性と女性が1日おきで入れました。

 食事は、朝と晩は研修所の人たちが作って、提供してくれました。ほどなく、集団生活を過ごすうえでお掃除当番とかお料理当番とかの態勢も整い、お風呂も交代で掃除したりしてました。それで、お昼は自分たちで作っていました。

 食料は、会社のご厚意で、あの混乱の中、実店舗の対応だけでも大変なさなか、自社のお店から持ってきてくれました。食事はだいたい、おにぎりと味噌汁。夜だけは大皿で、野菜いためやウインナーなどをつつきましょうと。研修所なので、お肉とかお魚をさばく調理室もあって、ご飯を出せる体制はあったんです。あの当時、震災が起きてからの1週間、私たち家族は、有難くも大変恵まれてたと思います。

 部屋では、若い女性とその彼氏が一緒でした。あとはその女性のお母さんとお姉ちゃんかな。彼氏が東電の協力企業の人だったので、どんな感じなんでしょうねっていう話はしてました。そのときに、「こんなんなったら絶対に危ないから、次に何が起こるかわかんないから、おれたちは目処が立ったら逃げる」って言ってました。

「今度爆発したら日本がふたつに分かれる」とか、「絶対これは危ないから、あなたたちも離れた方がいい」って、ほんとかウソかわからないけど「福島(市)も危ないんだけど、新幹線もあるし人も多いから、ほんとは避難命令だしたいんだけど出せない」、「ほんとはそのくらいのレベルなんだよ」って。

 それを聞いて、福島から離れようって思いはじめましたね。私は宮城県に妹がいたし、実家は岩手なので、北海道までは思ってないですけど、そういうのがなかったら北海道まで行ったかもしれません。

 その家族は、1日か2日くらいしたら九州の方に避難しました。

 研修所では、雨のときは放射能が降ってるから外には出ないようにっていう指示もありました。研修所では朝礼とか夕礼があったんです。やっぱり団体生活ですからね。

 何日目だったか覚えてませんが、夕礼の時に、「明日は雨なので用のない人は外に出ないように」っていう話があったんです。それで私は、夜のうちに車に必要なものを取りにいった覚えがあります。

 研修所に入ったときには、次にどこに行こうかとかは考えられなかったですね。身の安全、原発から遠くまで避難できたっていうだけで、子ども達も安心だなって。

 とりあえずガソリンがまったくなかったので、どこにも行けない。頼るなら宮城の妹のところとは思っていたくらいです。

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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

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Mさん(女性:仮名/震災当時49歳)(帰還困難区域)