一週間 ――原発避難の記録 一週間――原発避難の記録 第3回

Mさん(女性:仮名/震災当時49歳)(帰還困難区域)

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 三月一九日以後

 研修所には5日間くらいいました。出たのは土曜日(19日)だったかな。

 その間も社員さんは、仙台方面とかいわき方面とか、系列店が営業しているところに応援に行ってましたね。何もしないでここにいるわけにはいかないって。

 私たちは、車のガソリンがなくって、結局、4泊か5泊してました。19日か20日までです。

 研修所を出てからは、宮城県の妹の所に数日だけいて、岩手の実家に行きました。

 ガソリンは、いろいろな情報を探して、避難してる中の誰かが先発隊みたいに見に行って、あそこが入れられるとか、タンクローリーがいたとかいう情報を集めてました。同じ会社の人たちなので、なんとかみんなで打開しようっていう感じでした。

 妹の所に行けるくらいのガソリンを確保したら、すぐ出ました。

 妹のところは宮城県の内陸だったので、津波の被害はありませんでした。ガスも水道も電気もありました。

 仙台に入る前には仙台の保健所に連絡して、「福島から避難してきたけど、スクリーニングをする施設はありますか?」って聞いたんですけど、スクリーニングってなんですか?っていう感じでした。あっちは津波でそれどころじゃなかっただろうし。

 研修所からは下の道でした。でも避難者は高速を無料で走れるっていう話も聞きました。でも行かなかった。だって、「本当かな」って思ったし、避難者が殺到してるのかなとかも思ってました。みんなが高速使ったら大変なことになるし、緊急車両がたくさん通ってるので「悪いかな」っていう気持ちもあって。あと下の様子を見ながら行きたいっていうのもあったから。そんなに苦ではなかったですよ。

 4号線を北上して、福島を通ったときに、県北の小学校の先生が友だちにいるので、「学校やるの?」って電話で聞いたんです。その頃には子ども達の学校のことが気になりだして。今はいいけどこの先どこの学校に通わせたらいいかなって。

 その後も、4月近くにまた電話して、「やるの?」って聞いたら、「いちおう今はやる予定なんだけど」って言ってました。えー、こんな状態で? って思いましたね。

 仙台もひどい状態だったけど、その前に通った大河原の方にスーパーがあって、その時に、避難してから初めて焼き鳥を食べました。車でやってる屋台のやつ。家の近くにもあったんですよ、車で売ってる焼き鳥が。それを思い出して買っちゃったんですよ。

 そうしたら生きた心地というか、ちょっとスーパーでみんなで買い物してっていう日常生活ができて、現実世界に戻ってきたという感じでした。郡山までは緊張してたんですね。

 車には、毛布も積んでました。ぱんぱんで、毛布の間から首だけ出して運転してました。その後、毛布は岩手まで持っていきました。

 仙台は、お昼過ぎには着いたと思います。2、3件、パチンコ屋がやってて、主人が、「こんな時にもやってるよ」って言ってたのを覚えてます。

 ただ仙台にずっといるつもりはなくて、ガソリンが手に入ったら岩手の私の実家に行こうと思ってました。妹のところも4人家族で、賃貸マンションなので、長居はできないですよね。

 

 三月二四日以後

 岩手に行ったのは24日でした。仙台からは、こんどは高速を使いました。

 普通に走れましたよ。ガソリンも入れられて。高速道路のガソリンスタンドも、ひとり一回、2000円までっていう規制はありました。でも待ってる間に、ずーっとそこにいたので、「もう一回いいですか?」って言ったら、入れてもらえました。高速道路は、乗用車もトラックも、いっぱいいたような気がしますねえ。

 岩手では、着いてからは県庁とか市役所に行きつつ、転入の手続きを始めました。子どもは学校だけは行かせなきゃと思って。将来、震災で学校行けませんでしたっていう空白の時間はつくりたくなかった。やっぱり学校生活を送らせるのは親の役目なので、いかなる場合でも教育だけは受けさせたかったんです。一度身についた学問はなくならないから。

 福島には、当分は帰れないなって思ってました。当分って言うのは、1学期くらいは帰れないなって。

 それで市役所と教育委員会に行って、あらかた息子の中学校と娘の高校を決めてたんです。アパートも決めて、内覧もしました。津波の被害者は敷金、礼金が免除になってて、でもうちは原発避難者なのでどうしましょうって大家さんに聞いたら、そういう連絡はきてないので、普通の人と一緒で払ってくださいっていうことでした。津波で手一杯で、なかなか原発までの情報はないのかなって思いました。

 でも、4月4日に主人の会社の上司から、福島県内で事業を再開するので、戻れるなら勤務してくれという連絡があって、戻ることにしたんです。

 その話が携帯にきたときには、岩手で物件を見てて、借りようと思ってたところだったんです。

 連絡がきて、主人と「どうする」って話をしたんですけど、私は家族は4人で一緒にいるのがいいって思っていたので、私と子どもだけ岩手に残るっていう選択肢はなかったですね。でも、子どもが小さかったら、行かなかったかもしれません。

 次の日(5日)に夫と私だけで夫の勤め先のあるところまで行って、不動産屋さんを訪ねて、その日のうちに家を決めました。主人の会社で紹介してもらった不動産屋さんが丁寧にやってくれて。不動産屋さんには、飯舘や浪江の方々がどんどん避難してきてるから、もう今日決めた方がいいですよって言われました。

 学校もその時に決めました。中学校の転入の手続きもとって、学校へも挨拶に行きました。市役所の人と話をして、中学校の先生も今すぐ来てくださいって。

 でも、上の子の高校はすぐには決まらなかったんです。5月のゴールデンウィークを過ぎてから試験があって、行けたのは5月末か6月はじめくらいですね。それまでは自宅学習でした。中学校は市だけど高校は県で、対応が後手後手に回ってた感じです。

 それで4月9日に福島県の中通りに引っ越したんです。荷物はなにもなかったです。

 だからいろいろなものを買いに行きましたよ。あの頃はダイユーエイトに自転車がごっそり売ってて、それも買いに行きました。子ども達も避難してくれば、通学に自転車がいるから。

 ダイユーエイトはカーテンもたくさんありましたね。バーゲン品がばんばん出てました。引っ越し先のマンションは、最初はカーテンがなかったので風呂敷をかけたりしてました。

 でも、電化製品は、買ったはいいけど設置が順番待ちなんです。何日後にしか伺えませんって。電化製品に限らず、家具、自転車、生活用品、衣類は供給が追い付かなかったようです。お店はどこも、混んでましたよ。

 

 放射能のこと

 最初は放射能のことは、あまり危機感なかったですね。それより岩手から福島に戻ってからの方が、「ええ、そうなの?」って思いました。中通りでも放射線量が高かったっていうのを後になって本で見て、いや、これはどうしようかなって。

 SPEEDIのこととかも見てたかもしれないですけど、それまでは気にしてなかった。避難してた研修所は鉄筋コンクリートでしたけど、雨が降ると、外に出ないでくださいねっていう話があったりして、子ども達も外には出さなかったです。私と主人が買い出しに行ってました。仙台でも、子ども達はそんなに外には行かなかったかな。気をつけてはいました。

 そうしたら、4月に住み始めたマンションの近くのグラウンドでスポーツ少年団のサッカーチームが毎日練習してたんですよ。全力で、マスクしないで。それも、どうなのかなって。

 私、よっぽど保護者にも、「大丈夫なんですか? 今の勝利より、将来の方が大事だと思いますが……」って、言いたかったけど、言ってないですよ。お友だちのお母さんとかいるなら聞けるけど。でも子ども達はかわいそうですよね。知らないで練習してるんですから。後で何かあったときに……。

 結局、個人で身を守るしかないんだなって、そういう感じでした。私の息子が高校で、屋内スポーツの部活に入るんだって言ったときには、内心、体育館の競技でよかったって思いました。もしサッカーやるっていったら、「やめとけやめとけ、砂埃が口に入ったら」って、言ってましたね。リスクはあまり背負いたくないじゃないですか。

 

 一時立ち入り

 岩手から福島に戻った後、警戒区域が設定される前にいちど、富岡に行きました。4月20日か21日ですね。

 川内を通っていったんですけど、道路、混んでたぁ~。36号線も町中も。普段の町でした。

 警察? 巡回とかはいたけど、途中にはいなかったですよ。検問も受けた記憶ないです。行きも帰りもなにもなかった。

 でも、町の人は大勢いました。近所の人も、あ、どうも~って。いやー、みんな考えることは同じだよねーって話してました。

 自宅からは、後ろが見えなくなるかなっていうくらい積んできました。車はワゴン車です。多かったのは、夏物の洋服ですね。電化製品は持ってきてないです。あとは子どもに頼まれた、思い出の品というか、学校のものとかですね。子どもは一緒には来てないです。

 帰りもスクリーニングはなくて、川内の親戚のうちに寄ったときに靴底を水で洗った程度でした。

 その次は5月の一時立ち入りの時です。川内村役場に集合して、マイクロバスに乗りあって、富岡に行きました。久しぶりに隣近所の人とも会って、安否確認したり、近況を話したりしました。

 家の前に着くと東電の人が線量を計測してました。このときは8とか9マイクロシーベルトとかでした。

 結構高いなと思って、「バスから降りるのやめようか」って夫に言ったくらいです。

 家は、屋根瓦が落ちて、雨漏りしてたこともあって、壁とか畳が黒くなっててぶよぶよでした。キノコも生えてました。

 こんなんなっちゃったんだって……。なれの果てというか。1か月前までは楽しく暮らしてたのにね。

 震災前、ちょうどコタツを買ったばっかりだったんです。みんなで入れる大きいのです。その上にパソコンを置いてたんです。

 そうしたら、パソコンの上にちょうど、雨漏りがしてて。

「ダメじゃん……」って。

 家族団らんのコタツがダメになったっていう妙な悔しさと、やるせなさと、がっかり感と。楽しい場所に雨漏りしてて、場所が場所だけに、踏みにじられたっていう感じでしたね……。

 その後も、一年に一度か二度は帰ってます。去年も一度、家の様子を見に行ってみました。

 でもとくにやることはなくて、ただ、朽ち果て度合いを見に行くだけです。

 自宅は、行くたびに変わってますね。こないだは戸が開いてて。戸締まりしてたのに、イノシシが入ってて。なんかもう、がっかりするよねえ……。

 うちは警戒区域だからまだ壊してないですけど、取り壊す前にはもう一度きれいにというか、捨てるものは捨てたいですね。お掃除お助け隊に頼んで、ひと部屋だけでもきれいにしたいなって。だって、台所とかも当時のままなので、もう足の踏み場がないんですよ。イノシシも、冷蔵庫のドアを鼻で開けたらしくて。

 それに、壊す前には子ども達にも見せたいし。

 だからひと部屋だけでもきれいにしたいけど、あとはもう、手に負えない。ムリ。ただ見て、ぼうっとなるだけっていう感じです。

 避難してきて、息子は、中学、高校をここで過ごして、娘もここから大学に4年間通いました。不安、慟哭から始まった生活も、早8年になります。

 もう戻れない「富岡」はネット上のふるさとで、震災から過ごしたこの地は、リアルな現実の地という気がします。

 富岡にいた頃ほどは地域と交わらないけど、今は馴染んできた感じもしています。息子の通った学校の運動着や制服を着た生徒さんとすれ違うと、懐かしさも覚えますから。そういう子どもたちを見るときに、『気をつけて帰ってね』と思うのは、富岡でもこの地でも同じです。

 この気持ちが、今の私の答えかもしれません。

 家族もみんな、ここが『今帰ってくる所』だと思っているのではないでしょうか。

(第3回 了)

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 第2回
一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

 
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Mさん(女性:仮名/震災当時49歳)(帰還困難区域)