たった一度しか行ったことがないのに、忘れられぬ居酒屋がある。
わたしにとっては、蔵王温泉の湯町にあった「一二三(ひふみ)」という店がそうだ。
この店を良く憶(おぼ)えているのは、酒が美味かったせいもあるが、その時旅をしていたわたしの心持ちが特別だったことも、一つの理由だと思う。
あれは一九九七年の十月だったから、もう二十年も経っている。
子供のない人間の哀しさは、家族というものがけして増えず、減る一方であることだ。中年を過ぎると、それがことさら身にしみて感じられる。
前世紀九〇年代の初めから半ばにかけて、わたしは同居していた家族を三人も失った。
最初は親代わりにわたしを育ててくれた祖母で、次は長い間病気で入院していた叔母だった。そして三人目が「高見のおばさん」だった。
今「おばさん」と書いたけれど、じつは血のつながりはない。
おばさんはちょうど六十歳の時に新聞の求人広告を見て、わが家の住み込みのお手伝いさんになった。そのまま四半世紀住みついて、文字通り南條家のヌシと化したのである。
最後の数年間は寝たり起きたりで、仕事といっても電話番くらいしかできなかったが、それでも何とか家内を取り仕切っていた。というのも、おばさんは類稀(たぐいまれ)な人心掌握術の持主で、当時わたしが住んでいた原宿界隈に大勢の子分たちがいたからだ。
たとえば、薬屋の女の子は、おばさんが電話をかければ、すぐに薬やトイレットペーパーを届けに来てくれる。床屋のおねえさんはおばさんを親のように慕い、出張で散髪に来るし、あれこれ用足しもしてくれる。クリーニング屋もやって来る。鮨屋の板前は、食が細いおばさんのために特別製の雲丹(うに)の海苔巻きをこしらえる。
おばさんはこういう人たち──特に女性──が来ると、世間話から身の上話まで親身に聞いてやり、要所要所でお小遣いをやるのだった。おばさんが死んだあと、荷物を開けてみたら、小さな祝儀袋がたくさん出て来た。
おばさんの部屋は二階にあったが、足腰が弱ってからは、祖母が寝起きしていた一階の茶の間に蒲団を敷き、一日中そこを離れなかった。
それで、こんな笑い話がある。
ある晩、私は腸詰友達のO君と、その会社の後輩達と渋谷で酒を飲んだ。十分酔って、おひらきということになったが、まだみんなを帰してしまうのが淋しいような気がする。
家(うち)で自慢の烏龍茶でも飲んでゆけと勧めたので、一同は竹下通りの裏にあるわが家へやって来た。
わたしの家は狭く、玄関の扉を開けると、もうそこが茶の間とそれに続く台所である。おばさんは茶の間にスヤスヤと寝ている。
わたしはO君たちを卓袱台(ちゃぶだい)のまわりに坐らせて、茶箪笥(ちゃだんす)かられいれいしく七つ道具を取り出し、烏龍茶をいれはじめた。この頃、じつは烏龍茶に凝(こ)っていたのである。といっても、いろいろな茶を飲み較べたりするのではない。台湾で知り合ったお茶屋さんから上等な陳年茶を送ってもらい、毎日茶芸に精進していたのだ。なぜかというと、そのお茶が二日酔いの特効薬だったからである。
小さな急須に茶っ葉を半分も入れ、熱い湯を満たして待っていると、B嬢というO君の後輩は、寝ているおばさんを横目に見て、怪訝(けげん)な顔をしていた。だが、その時は何も言わなかった。
翌日、彼女は会社でO君にたずねた。
「あの、昨夜、南條さんちのお茶の間に、お婆さんが寝ていたような気がするんですけど──」
「ああ、高見のおばさんだよ」
「アッ! やっぱりいらしたんですね!」
B嬢は突然甲高い声を発した。
「君、何言ってるの?」とO君。
「安心しました。あのお婆さん、もしかするとあの家の地縛霊か何かで、あたしにだけ見えてるのかと思ったんです。本当にあそこにいらしたんですね」
「あたりまえだよ」
「だって、みなさん、全然無視していらっしゃるんですもの」
「寝ているのを起こしちゃ悪いからさ」
痩せ枯れて、それほど幽霊に近くなったおばさんは、その秋、とうとうあの世の人になってしまった。
初めはいつもの風邪かと思い、代々木病院に入院させたが、急に容態が変わった。
わたしはおばさんが亡くなる前々日の晩に、例の陳年茶を水筒にいれて病院へ持って行き、おばさんに飲ませた──少しでも元気にならないかと思って。
部屋へ行くと、おばさんはウツラウツラしていたが、わたしが声をかけると、目を醒ました。吸い飲みでお茶を一口すすらせると、
「おいしい」
とかすかな声で言った。
それがわたしの聞いたおばさんの最後の言葉だった。
二日後の朝、親族から病院で亡くなったという報(しら)せが来た。
その晩のわが家の台所には、たしかに人の気配があった。いつも坐って煙草を吹かしていた椅子に、おばさんが、目には見えないけれどもたしかにいると思った。
けれども、日が経つとともにそんな気配も薄れ去った。家は本当にガランとしてしまった。わたしは祖母が死んだ時以上の寂しさを感じたが、それはきっと生まれて初めて独りきりになったからだろう。
蔵王温泉へ行ったのは、その頃だった。
ナナカマドの真っ赤な実と黄色い葉が、透きとおった秋の日射しに輝いている。それがあの時、蔵王温泉へ行って一番心に残った光景である。
わたしが泊まった「寿屋」という旅館は、共同浴場「上湯」の真ん前にあった。鰻の寝床のような長い宿屋で、本館、中館、離れと三つの建物を渡り廊下でつないでいる。
広々した部屋で一服したあと、早速「上湯」へ入りに行き、そのあと散歩をし、宿へ帰って、やがて夕飯になり、オコゼの卵をつまみに一杯飲んだら調子がついて、もっと酒を飲むために街へ出た。
「寿屋」は細い坂道の上にあった。その坂を少し下りて行ったところの横丁の角に、「一二三(ひふみ)」という居酒屋の看板があった。
何となく心引かれて入ってみると、店主がにこやかに迎えた。小さい店で、まだ時間が早いせいか、ほかに客はいなかった。
カウンター席に坐って、
「酒をください」
と言うと、おやじさんはいきなりこんなことを尋ねた。
「お客さん、今夜は何合お飲みになります?」
変わった店だ。わたしが怪訝な顔をしていると、おやじさんが言うには──
「いえね。それによって、どんなお酒をどの順番で出すか、考えようと思うんです」
なるほど、そいつは気が利いている。
「じゃあ、三合」
とこたえた。
すると、最初に出して来たのは、「錦爛」という酒だった。冷やで、正一号の徳利に入っている。
口あたりが良い。やや甘口だが、厭味がない。
茄子の漬物を出しながら、おやじさんはこんな持説を開陳した。
「お客さん、新潟の酒とくらべて、どうです。山形の酒はちょっと違うでしょう。新潟じゃ魚をつまみにして酒を飲むけれども、山形じゃ漬物をつまみにして飲むんです。だから、新潟の酒は刺身に合うように味がさっぱりしていて、山形の酒は漬物に合うように少し甘口なんです」
なるほど、そんなものかと思いながら一本目を飲み干した。次に来た酒は「大山」だった。
「これもよかったら、どうぞ」
おやじさんはグラスに注いだ水を一緒に出した。鶴岡にある「大山」の蔵元で使っている井戸水で、そのあたりは海水と淡水が微妙に混ざるところなのだという。そう言われると、かすかに塩分を感じる。酒と交互に味わってみると、面白い。
「大山」のつまみには海苔をかけたおぼろどうふが、三本目の「もきち」という酒には、アケビの煮物がついて来た。
アケビという果物は、薄紫の厚い皮の間に、甘い葛(くず)のようなものにおおわれた黒い種が入っている。その葛に似たものをしゃぶって味わうのだが、山形では皮の部分をよく料理する。煮たり、揚げたり、炒めたりとさまざまな食べ方があり、歯ごたえは茄子に似ているが、味はほろ苦くて、酒がすすむ。
三合飲んだが飲み足りず、結局、五、六合飲んでしまった。 良い気分になったわたしは、例の烏龍茶のいれ方をおやじさんに講釈していた。
急須の容量に対してお茶っ葉をどのくらい入れるとか、急須の中の温度を保つことが肝腎だとか、本当に上手くいれた時の香りは素晴らしいとか──そんな話をしながら、ふと高見のおばさんのことを考えた。おばさんはあのお茶を「おいしい」と言ってくれたけれど、やはり味のわかる人だったナアと。
(この二月、蔵王温泉に「山形酒のミュージアム」が開館したというニュースをテレビで見て、あの晩の記憶が蘇った。昔の店はもうないけれど、山形の酒の飲み較べに、蔵王へまた行ってみたい気がする。)
今はない酒場、幻の居酒屋……。酒飲みにとって、かつて訪ねた店の面影はいつまでも消えることなく脳裏に刻まれている。思えばここ四半世紀、味のある居酒屋は次々に姿を消してしまった。在りし日の酒場に思いを馳せながら綴る、南條流「酒飲みの履歴書」。