そして3月23日、羽生結弦はまさに「覚醒」した姿を私たちに見せてくれました。正直に告白しますと、私は最初の4回転ループの見事な出来栄えを見た後のことは、魔法にかけられたように記憶がおぼろげになってしまいました。4回転サルコーがやや回転不足だったのは客席からでも見えましたが、「こんな複雑なトランジションを入れて4回転を跳ぶなんて! そもそもなんというチャレンジ!」という驚きのほうがはるかに大きかったことは言うまでもありません。
拙著『羽生結弦は捧げていく』の中でもふれていますが、「プログラムのほぼ全編がコレオシークエンスで構成されている」と言っても大げさはない、超絶的な密度の高さ。しかしスケーティングがあまりにもなめらかなために、その密度の高さを忘れてしまいそうになるほどの「自然さ」で、羽生は氷の上に複雑極まりない図形を描いていきます。プログラム後半で跳んだ、ひとつめの4回転トウが成功したあたりから、会場を包む熱が高まり、空気も揺れ始め、それが最後の要素のコンビネーションスピンのときには大波となって会場を包んでいたのを、体がはっきりと覚えています。「覚醒」という言葉さえ霞んでしまうような、羽生結弦のすさまじいばかりの爆発でした。
本当に、生で見ることができてよかった。熱狂しているのに、ぼう然としているような不思議な気持ちで、私は立ち上がって拍手を送っていました。
「新しい幸せを見ることができるだろう」という私の予感が、何百倍ものスケールで実現した瞬間でした。
羽生の直後は、ネイサン・チェンの演技でした。私は、ネイサンの演技にも、羽生結弦の演技とはまた違った形で度肝を抜かれることになります。冒頭の4回転ルッツは、スピードのある踏み切り、驚くべき高さ、空中姿勢の素晴らしさと回転の速さ、空中の高い位置で4回転回りきっているために「こらえている」感じがまったく見えない着氷、そして着氷後のトレースの大きくて自然な軌道。どれをとってもお手本になるような、超一級品の出来栄えでした。あまりにも自然に実施していたため、一瞬トリプルルッツのように見えてしまったほどです。
その後のジャンプも素晴らしかった。特に、「昨シーズンまで明らかに苦手だった」ことが信じられない、トリプルアクセルの高さと着氷後の流れのよさ、「完璧」という言葉以外の形容が見つからない4回転トウの鮮やかさは特筆ものでした。
『羽生結弦は助走をしない』に続き、羽生結弦とフィギュアスケートの世界を語り尽くす『羽生結弦は捧げていく』。本コラムでは『羽生結弦は捧げていく』でも書き切れなかったエッセイをお届けする。
プロフィール
エッセイスト。東京外国語大学外国語学部フランス語学科卒業後、出版社で編集に携わる。著書に『羽生結弦は助走をしない 誰も書かなかったフィギュアの世界』『恋愛がらみ。不器用スパイラルからの脱出法、教えちゃうわ』『愛は毒か 毒が愛か』など。