スポーツの世界には多くのレジェンドプレイヤーがいますが、その中のひとりに、70年代中盤から80年代中盤にかけて女子テニスの世界を牽引した、クリス・エバートという名選手がいます。テニス大国のアメリカにおいて、今でも象徴的な存在です。あの大坂なおみがアメリカで研鑽を積んだテニスクラブは「エバート・テニスアカデミー」。エバートが引退後に作ったテニスクラブです。
エバートが引退したのは1989年のことですが、
「負けても悔しいと思わなくなった。そんな自分に気づいたとき、『そのとき』が来たことがわかった」
と語っていたのを、テニス雑誌で読んだことが、私は今でも忘れられません。
羽生の悔しがり方は、どこか少年のようでした。
「超えたい壁がある。超えたい人がいる」と素直に思えること。それはもしかしたら、オリンピック連覇を果たし、世界選手権でもすでに2枚の金メダルを持っている選手にとって、何よりも難しいことかもしれません。しかし、羽生はその思い、その願いを、ごくごく自然に口にしてくれました。
「負けは死と同然」と語った試合後のインタビューでも、
「もっと強くなんなきゃいけないなっていうのを、すごく痛感してます」
「次のシーズンに向けては、しっかり時間あるので、ケガしないように、そのうえで追随されないくらいに強くなりたいなと思ってます」
と言葉を残しています。
まだまだ、見せてもらえる。
羽生結弦という選手が見せるスケートのファンとして、フィギュアスケートというスポーツのファンとして、そのことがどれほど嬉しいか。
羽生がこの言葉を自分から発してくれた今だからこそ、言えます。
「夢のような時間、夢のような物語が、完璧な形でフィナーレを迎える」ことよりも、「この夢のような時間、夢のような物語には、まだまだ続きがある、と示されること」のほうが、私にとってははるかに嬉しいことなのです。ただし、それを決めるのは、観客である私はなく羽生結弦自身。だから私は、この願いを今まではっきりとは口にできなかったのです。
世界選手権が終わり、私は、私にとっての「新しい形の幸福」をくっきりと見出すことができました。次のシーズン、羽生結弦とネイサン・チェンだけでなく、すべての選手が「もっと強くなりたい」と、もう一度ギアを入れ直してくるのです。羽生自身も言っているように、これ以上のケガが選手たちを襲わないことを何よりも強く祈りつつ、数か月後にまたやってくる「新しい幸福」をただただ心待ちにしたいと思います。
追記
世界選手権を自分なりにもっと詳細に振り返る原稿は、いまから執筆に入ろうと思います。読んでくださる方が少しでもいてくださったら、私にとって、それも大きな幸せです。よろしくお願いいたします。
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『羽生結弦は助走をしない』に続き、羽生結弦とフィギュアスケートの世界を語り尽くす『羽生結弦は捧げていく』。本コラムでは『羽生結弦は捧げていく』でも書き切れなかったエッセイをお届けする。
プロフィール
エッセイスト。東京外国語大学外国語学部フランス語学科卒業後、出版社で編集に携わる。著書に『羽生結弦は助走をしない 誰も書かなかったフィギュアの世界』『恋愛がらみ。不器用スパイラルからの脱出法、教えちゃうわ』『愛は毒か 毒が愛か』など。