「それから」の大阪 第21回

ニュータウンに残るマーケットと商店街のこれから

スズキナオ

飲食店がファンシーショップになり、また飲食店に

 竹見台近隣センターは、商店が並ぶ「竹見台商店会」と、一つの建物の中に生鮮品を扱う個人店が集まる「竹見台マーケット」から成り、その二つはそれぞれ管轄が別なのだという。

 まずは「竹見台商店会」の会長を務める米田純子(よねだすみこ)さんにお話を伺った。米田さんは奈良市生まれ。結婚を機に大阪へ移って来られ、かつて竹見台商店会にあったファンシーショップで働いた後、店を受け継ぐ形で同業種の店を経営。現在は同じ場所で「竹見台の食卓 光之助」というカフェ・レストランを経営している。

竹見台近隣センターの中に飲食店「竹見台の食卓 光之助」(2022年5月撮影)
店主であり、竹見台商店会の会長も務める米田純子さん(2022年5月撮影)

――米田さんはいつから竹見台商店会の会長をしているんでしょうか。

「この店を始めて18年目やから、それからずっと会長をしています。それまではまた別の方がやっていたんですけどね」

――このお店は18年前にオープンしたと。

「はい。その前に16年間、ここでキティちゃんのお店してたんです。あの、サンリオのキティちゃん。『メリーキッズ』というお店でした」

――キティちゃんのグッズを売るような、ファンシーショップというか。

「そうそう。サンリオ直営のお店でね。だけどだんだんと住んでいる人の年齢が上がってきて、ちっちゃい子たちが大人になってきて。それでやめて、料理を勉強してこの店を始めました」

――ということは34年前からこのあたりにいらっしゃるわけですね。

「もっと前で、もともとはここにあったお店でアルバイトをしてたんです。オーナーがお店をやめるっていうので、ほなやろうかなって」

――アルバイトをされていた。

「そうです。『キューピット』っていう名前のファンシーショップで、そこから私に受け継がれて『メリーキッズ』っていうお店になって」

――なるほど、ファンシーショップとしての歴史もだいぶ長いんですね。

「そこのオーナーはもとはここでおうどん屋さんをやっていて、そのおうどん屋さんをやめてサンリオショップをしたんです。だからここは最初に飲食をして、サンリオショップになって、それでまた飲食店になったの」

「竹見台の食卓 光之助」の店内。落ち着いた雰囲気で居心地がいい(2022年5月撮影)

――最初にあったうどん屋さんは、1968年にこの竹見台近隣センターがオープンしたのと同時期にできたんでしょうか。

「そうだと思います。流行っていたみたいですよ」

――それで、米田さんがこの竹見台で最初にお仕事をし始めたのは「キューピット」というお店にアルバイトをしに来た時だったわけですね。

「そうですね。うちの子どもたちが小学校だったかな。上の子がもうすぐ中学に行くかそこらで。私は豊中の方に住んでいたから、近所やったからね」

――その頃と今とで、この辺りの雰囲気は違いますか?

「ものすごく違います。おうどん屋さんがあって、自転車屋さんがあって、マーケットの中もお店がたくさんあって動けないぐらい(笑)。その自転車さんも売り上げが日本一になってニュースになったぐらいで」

――新しい家族が一気にやってきて、みんな自転車を必要としていたわけですね。

「そうですね。どこ行くにも自転車が必要だったからね。だからすごい人でした。私が『メリーキッズ』を始めたのが1988年頃やから、バブルが崩壊する前ですよね。ずらーっとお客さんが並んで、すごかったですよ」

――キティちゃんのショップに行列ができる時代だったんですね。

「そうそう。今はお店に来てた子たちがお母さんになって、ここに娘さんを連れてきたりします」

――サンリオ直営のショップってこの辺りに他にもあったんですか?

「なかった。どこもないからお客さんがすごかった」

――サンリオからしてもそれだけこのエリアでの売り上げが見込めたということですよね。

「いい場所やったんでしょうね。若い人が多い、これからの町というので」

――商店会全体としても活気があったんでしょうか。

「ありましたよ。一番端っこが電気屋さんで、その次が整骨院さん、次の『クローバー』さんは洋品店、その隣もおしゃれな洋服屋さんでね、次が自転車屋さん、で、うちがファンシーショップで、隣が本屋さんで、その次が荒物屋さんで酒屋さん。次が薬局で、ここは今も営業されています。で、反対側はお米屋さんで、その横が駄菓子屋さん。駄菓子屋さんの横はオーナーは同じで色々変わってるけど、パン屋さんしたりクリーニング屋さんしたり、今は日本料理店。そしておもちゃ屋さん。新聞店も4店あって」

――それに加えてマーケットの方もあるわけですもんね。

「そうそう。たくさんお店があって、あっちは生鮮品ですよね。だいたいの物は揃いました。入り口にお好み焼き屋さんがあったり、賑やかやったね。今は商店会のお店も整骨院やらお医者さんになったり、変わりましたよね」

――商店会のお店の数もだいぶ少なくなっているわけですね。

「ニーズが違ってきてるからね。みんなが求めるものが。自転車やったら自転車の大きなチェーンができたし、洋服にしたってイオンにちょっと行ったら子ども服から何からあるし、安価でしょう。でもここは便利やから、『閉まってるお店を貸してくれ』みたいに聞かれることは多いけどね。今は全店稼働しています」

時代の流れとともに個人店の数は減りつつあるという(2022年5月撮影)

――会長として、今はどんな活動をしていますか?

「今はコロナでねぇ。2年ぐらい商店会費も集めてないし。それでも月に2回、通りを掃除したり。コロナがない時は毎年12月にクリスマスのイベントをしたりしていました」

――そういうイベントの時にはやっぱり近隣の方が集まってくるんですか?

「そうですね。たくさん来られますよ。ミュージシャンをゲストで呼んで演奏してもらったりね」

過去に開催されたクリスマスイベントのチラシ(2022年5月撮影)

――じゃあちょっとここ数年は活動ができていないんですね。そういう機会がないとみんなで顔を合わせることも少なくなりますよね。

「そうそう。昔はみんなで日帰り旅行したこともあったけど、今はできないですね。みんな時間もバラバラやから。休みも違ってるし」

――昔と比べてつながりが薄れてる感じはありますか?

「そうですね。店舗を借りてお店をやっている人も、貸してるだけの立場の人もいますからね」

――米田さんは竹見台商店会がどうなっていくといいと思っていますか?

「今はこの近隣センターの再開発の話があるので、その話を進めて、それまでつなげたらなと思いますね」

――近隣センターを新しく建て替えるということですか?

「そうです。ここは桃山台の近隣センターが近いので、そこも共同して建て替えるという話を進めています」

――この辺りの風景も変わりそうですね。

「風景も変わるし、人間も変わっていくやろうしね。でもコロナがあったから、当初の予定からプラス何年かはかかるかもしれないし」

――いつ頃にできるっていうのはまだわからないわけですね。

「去年の時点では『2030年頃には』なんて話したりもしてたんやけどね。コロナもあって歩みは遅くなってきてる。でもそうなったら……高齢者が多いからね。大変ですね」

――近隣センターが新しくなることに米田さんはどんな思いがありますか?

「私らの願いは、その先の50年後、もっと先にも『ええな』って思われるようなものができたらいいなと。それぐらいの意気込みでやりたいけど、大阪府と吹田市とも話をしてというのがなかなか大変ですからね」

――商店会の方とかマーケットの方の意見もまとめていかないといけないわけですもんね。それは大仕事ですね……。

「大仕事。桃山台さんとも一緒やから。なんとか、いいようになって欲しいね」

――竹見台あたりは住みやすいですか?

「快適です。子育てにも便利でしたよ。使い勝手の良い場所。どこへでも行けたからね。でも今はこの辺りが少しおいてけぼりになっているような。ニュータウンの中でも今すごく力の入ってる部分と少し後回しにされてるところがあるからね。だから再開発がなおさら大事なんです。新しい人にとって住みやすい場所になって欲しい」

――米田さんがこの辺りでずっと過ごされて、特に憶えていることはありますか?

「そこの公園にお地蔵さんがいてはるの。お盆の頃にお地蔵さん祭りもしてるんです。それが賑やかやったな、とかね。その年に生まれた子の提灯を買うんですけど、名前を書いた提灯を納めて、お地蔵さんのところに吊るすんですね。そこにお祝いを持っていったりね」

夏にはお祭りも行われてきた「竹見地蔵尊」(2022年5月撮影)

――あのお地蔵さんは昔からあるんですか?

「今から約50年前に千里ニュータウンが生まれて、その開発工事の際に竹見公園あたりでお地蔵さんが見つかって、それでしいのき公園におまつりされたそうです」

――ちなみに「光之助」という店名は……?

「店の名前をずっと決められなくて、ギリギリになって『おじいちゃんの名前にしよう!』と」

――米田さんにとってのお父さん?

「そうです。そしたら母は反対した(笑)。みんな『だんなさんの名前ですか?』って言うけどね。光之助ってなかなか少ないでしょ。今思えばなかなかいい店名だと思います」

――光之助さんは料理が得意だったとか?

「全然。バリバリの公務員(笑)」

――そうなんですね。でもじゃあ、この「光之助」のお店の雰囲気も今だけのものなんですね。

「そうですね。今だけ。ここは店内でコンサートもよくやってたんです。ピアノがあるから演奏会したり。今も予約があれば貸してるんですよ。あっちは私が弾いてたオルガンで、ものすごい古いですよ。小学校の頃から持ってる。あの頃はこんなんやってんね。脚踏み式でね、可愛い音が出ますよ。結婚パーティーをするゆうたら弾いたりして」

米田さんが子どもの頃から弾いてきた古いオルガンが今も店内に残る(2022年5月撮影)

――どんな音が出るのか、いつか聴いてみたいです。今日はありがとうございました。

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2014年から大阪に移住したライターが、「コロナ後」の大阪の町を歩き、考える。「密」だからこそ魅力的だった大阪の町は、変わってしまうのか。それとも、変わらないのか──。

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プロフィール

スズキナオ

1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『QJWeb』『よみタイ』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、パリッコとの共著に『のみタイム』(スタンド・ブックス)、『酒の穴』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)がある。

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