1960~70年代の千里ニュータウン
日を改めて次にお話を伺ったのが「竹見台マーケット」を管理する「吹田商業振興協同組合」の代表理事を務める中臺秀夫(なかだいひでお)さん、専務理事を務める川内辰男(かわうちたつお)さんのお二人だ。中臺さんは千里ニュータウンの藤白台で理髪店を経営してこられ、川内さんは竹見台マーケット内に出店している青果店「奥青物店」の店主としてお仕事をされている。
――まずは竹見台マーケットのこれまでの変遷からお伺いしてもいいでしょうか。
中臺さん「僕自身はここ(竹見台)で仕事をしてきたわけではなく、藤白台の方のマーケットで(理髪店を)やってきて、そっちの組合の役もずっとしてきて、それでここの組合の理事長ゆう形になったんです。過去にこういうお店があったゆうのは、まあ、知ってることは知ってるんやけど、内部のことは川内さんが一番詳しいんですよ」
川内さん「まあ、昔のことやからね。私が来る以前の人はみんな死にはった(笑)。それか、やめはったからね」
――川内さんが竹見台マーケットに来られたのはいつ頃ですか?
川内さん「40年か」
――40年前ですか!中臺さんはどうですか?
中臺さん「竹見台の理事は3年前からで、それ以前は藤白台でね。藤白台もまた歴史があるからね。もともとは僕の親が佐竹台の初期の頃、マーケットで散髪屋をやっていたんです。それが藤白台にも店を出すことになって、それで僕がやることになったんです。60年ぐらいになるかな。まちびらきした当時です。マーケットができた時に『お店を出せへんか』という話がきた。せやから、佐竹台から数えると60何年ぐらいかな。そのぐらいになるんですよね。駅の工事をしている頃からそこにお店が少しずつできて、まだ府営住宅も半分ぐらいしかできあがってない頃です」
――なるほど、佐竹台にお父さんのお店があって、藤白台に支店というか新しいお店ができて、中臺さんがそこで仕事を始めたと。
中臺さん「父が始めた方は『理容中台』という屋号で、今は兄が継いでいます。藤白台の方は『理容藤白』でやってました。」
――なるほど。佐竹台、藤白台、そしてこの竹見台と、とにかく千里ニュータウンの歴史はずっと見てこられたわけですね。
中臺さん「渡り鳥的にあっち行ったりこっち行ったりしてきましたけどね。当時、マーケットで働いている人はだいたいが(千里ニュータウンの)外から通いで商売しに来てましたね。この竹見台マーケットの中にも散髪屋があったんですけど、そこに応援に来たこともありますよ」
――川内さんと竹見台マーケットの関わりについてお聞かせください。
川内さん「わしの場合はね、ここがあるのは前から知ってた。その頃は中央市場の果物の卸におったからね。それをこのマーケットの果物屋まで配達しとったんよ。その親方が『奥さん』ゆうて、今の店も『奥青物店』ゆうんやけど、わしの親方や。その親戚がここで店をやってたんやけど、どうもうまいこといかへんからわしに『やれへんかー』ゆうて、それがあって、そんで来たのが、41年前かな」
――なるほど、市場からここまで配達しに来ていたのが縁で竹見台マーケットで青果店をやることになったという。
川内さん「そうそう」
――お仕事を始めた頃はどんな雰囲気でした?
川内さん「その頃は23店舗もあったからね。今は7店舗や」
中臺さん「もう、どこの近隣センターもひしめきあってた頃」
川内さん「(竹見台)商店会の方だって専門店がようけあったんやで。ぎょうさんあったんが時代の流れでどんどん大型店舗になっていったやろ。文房具屋から、靴屋から全部なくなっていって」
中臺さん「1960年代ぐらいはものすごい繁栄してたね。その頃ゆうたら娯楽は映画しかなかったからね。佐竹台とか藤白台とか、映画の撮影隊が来てましたよ。吉永小百合とか、佐竹台で撮影してたんやで」
川内さん「わしがまだ子どもの頃やでそれ(笑)」
――千里ニュータウンを舞台にした映画があったんですね(1965年公開の日活映画『青春のお通り』を指すことが後で判明)。
中臺さん「その時は千里ニュータウンっていうのがあらかたできあがりつつあった。藤白台にも撮影隊が来て、マーケットの中のシーンもあったんです。鮮魚を売る店で撮っていた。僕らは当時その1階で散髪屋をやっていたからね。『撮影やってるなー』ゆうてみんなで話をしてた。その頃から比べるとね。それはものすごい違いますよ」
川内さん「今ここにある7店舗も、ここだけでなくて、あちこちのお店に商品を納めに行って、それで残ってるね。ここだけで商売するとなるとちょっとしんどい」
――来る人の層も変わっていますか?
中臺さん「だんだんと住宅の中が高齢化しだしたからね」
川内さん「昔は育ちざかりの小さい子どもがどこの家にもいたからな。人口も多かったし競争相手も少なかった。だからそれなりに売れて流行ってたんやけどね、子どもが大きくなって出ていくと、だんだん年寄りばっかりになって」
中臺さん「食べ盛りの子どもがいるような家が少なくなると、一回で購入される商品も少なくなっていくでしょう」
川内さん「(千里ニュータウンの中には)住宅が新しくなって人口が増えていってるところもあるんやけど、それ以上に競争相手が増えてんねん。スーパーがそこら中にできたやろ。それで専門店がもうあかんようになってきたね」
――活気が一番あった時期というといつぐらいになるでしょうか。
中臺さん「1964年から万博の後か。1977、78年ぐらいまでは結構活気があったんですよ」
――万博の影響も大きかったですか?
川内さん「ものすごい人口が増えたんですよ」
中臺さん「ここに住んでる人を頼って地方からみな万博見物に来てた。ニュータウンを宿にしてくるわけ(笑)。その間はここに滞在してね。そういう時代やからみんな購買力があがりますわね」
川内さん「万博の頃まではよかった。物を置けば、それで売れたんよ(笑)」
中臺さん「それ以降になってくるとだんだんと競争が出てくる」
川内さん「そうなったらよっぽど計算して商売せんとあかん。儲けなあかんからね。プロでなければ残っていかん」
中臺さん「どこでもそうでしょうけど、個人で商売をして歳をとってくると、跡取りがいてるかどうかではっきり(将来が)分かれるんですよ」
――なるほど、そうやって徐々にお店が少なくなっていったわけですね。
川内さん「うん。一時はそんないい時期も、まあ、あったということや(笑)。わし、30歳でここに来たんや。昭和57年か56年かな、来たのが。今71や」
中臺さん「みんな購買意欲もあって景気がよかった時代や」
川内さん「やっぱり時代の流れやね。最初はね、スーパーができてもね、スーパーの近くに店を出せば売れててん。スーパーがお客さん呼んでくれるやろ。その頃のスーパーは、そんなに生鮮に力を入れてへんかったから、安く売ってへんかったから」
中臺さん「スーパーもだんだんと商売のやり方を変えてきたんやね」
川内さん「そうそう、生鮮に力を入れ出して。やっぱりそないなったら、みるみる力をつけていったもんね。人口は減ってくる、競争相手は増えてくる。そんなもんで専門店がダメになってきたね」
中臺さん「以前やったら、まだマイカー持つゆうのがステータスだった頃は、自分の車を持ってない人も多かった。そんなに遠出することもなく、近所で買い物してくれてはったけど、今は誰でも郊外へ買い物に出て行きはる。アウトレットに行くとかね。そういう感覚になってる。ニュータウンが出来た頃は移動手段がバスしかなかったから、ここらでもちょっと遠くへはみんなバスで買い物に行った」
――私はこの竹見台マーケットを初めて見た時にこんなに個人店が残っているということにすごく驚いて、嬉しく思ったんです。スーパーより良い部分もあると思うんですが。
川内さん「個人店の方がええところもあるよ。目が肥えてるやん」
中臺さん「『あそこのあれが美味しいで』ゆうて聞いてくる若い人もいる。いいもので美味しいものであればやっぱり買ってくれる。口コミで広まったりね」
――今、竹見台マーケットで働いていらっしゃる方はご高齢の方が多いですか?
川内さん「一番若い者でも50歳近いかな。あとはみんな60歳過ぎてるしな」
中臺さん「なかなか商売を継いでくれる人がいないゆうかね。親の方が『やめとけ』ゆう(笑)。僕はサービス業やから、小売りとはまた違うけどね。やっぱり跡取りがおるおらんでだいぶ違う。僕らが入った頃には、吹田市だけで散髪屋が200何軒もあったんですよ。今それが3分の1ぐらい。仕事をしてくれる人がおらんねん。技術者のなり手がいないんですよ。手軽にできる仕事やったら人気あるけど、私らの場合はそれができない。できあがるまで、4、5年かかっちゃうからね」
――今後、竹見台マーケットはどうなっていくと思いますか?
中臺さん「難しいなぁ。小売り業をやろうという気力のある人は少ないと思う。ここの場合は今、再開発に向けて話をしてるんやけど、みんなで連携どう取っていくかもあるし、吹田市さんの協力にもかかってるしね」
川内さん「まあ、ここは天然記念物やな(笑)」
中臺さん「千里ニュータウンの近隣センターでも、バラバラになってしまっているところもあるからね。こうしてまとまってるだけでもありがたいことですわ」
――竹見台マーケットの昔の写真とか、そういう資料は残っていないですか?
中臺さん「みんな撮ってる余裕もないし(笑)。残そうと思う人がいない。とにかく商売が先やからね。それこそさっきの映画を見てもらうのが一番いいと思いますわ」
――その映画のロケの様子を中臺さんは実際に見れたんですか?
中臺さん「ちょっとはあったんかな、仕事の合間やったけどね。雨のシーンを撮る時に、消防車が来て雨を降らしてた。仲間と『何してんの?』『雨のシーンらしい』ゆうて。雨の下を俳優さんが通っていって。それが最後のシーンやったんかな。確か僕がまだ20代前半やったかな。今75歳やから、え、もう50年前か(笑)」
――竹見台に限らず、近隣センターのかつての風景で憶えていることはありますか?
中臺さん「1970年代、僕らの仕事は盆正月が忙しかった。年の暮れなんかは、お客さんを待たして、整理券を配ってましたわ。みなさん府営住宅で暮らしてはっても、田舎から大阪に来て、家庭を持ってニュータウンに来て、そこで子どもを育てているわけ。それが盆暮れ正月は田舎に帰るからゆうて散髪に来る。それで忙しかったんです。それが今はもう反対に、ここに住んでいる人のところに子どもさんが帰省して来る。あの忙しさは今はないです。あとは、万博でお店もやったな」
――万博で?
中臺さん「万博ゆうたらもう職員が2000人、3000人といてはったから、その人たち向けの散髪室があった。そこをやっていたんです。吹田市からも大阪府からもたくさん職員が来てはって、小さい敷地でやって、5人フル回転してもむちゃくちゃ忙しかったからね。その日『一日で90人やった』ゆうのは記録として憶えてる。まだ会場は工事中やったから、ソビエト館とかどことか、できていくのを見ながら仕事場へ行ってました」
――千里ニュータウンは今年でまちびらきから60周年とのことですが。
中臺さん「町としては好きやね。環境がいい。道路も整備されてるし、子どもを育てやすい。学校も近いし、公園が近い。だからゆうことないですよ。ここで育って社会人になって他で仕事して戻ってきた人がみんな『やっぱりここがええなあ』って言う。みんな『ここは最高やなー』って、『でもマンション高くてなかなか買われへん!』って(笑)」
――貴重なお話を、ありがとうございました!
取材が終わった後、竹見台マーケットで買い物をして帰ることにした。「奥青物店」では、先ほどお話を聞いた川内さんがお仕事をしている。小西食品の豆腐や生ゆばを今日も買い、竹見台の近隣センターと共同で再開発に向けて話し合いをし始めているという桃山台(竹見台とは通りを隔ててすぐのエリアだ)の近隣センター周辺ものぞいていく。
帰宅後、中臺さんが話していた映画『青春のお通り』のことを検索してみると、オンラインで視聴できることがわかり、すぐに見てみることにした。まちびらき間もない頃だと思われる千里ニュータウンの空撮シーンから始まり、真新しい町を舞台に、したたかな生活者の視線、複雑な人間模様、若い男女の恋などなどが、全体を貫くトーンとしてはあくまで明るく、笑いを交えつつ描かれている。
中臺さんが言っていた通り、とんでもなく賑やかそうな藤白台マーケットの場内が何度も映る。鮮魚店、青果店、酒屋などが並び、買い物客がひしめいている。雨のラストシーン。吉永小百合と浜田光夫がお互いの恋心を確かめ合い、出入口に置かれている貸し傘を差して外へ出て行く。黄色い傘には「藤白台マーケット」の文字。若い二人の男女が雨の中を進んでいく後ろ姿には、これから待つ生活への希望が溢れているように見えた。
(つづく)
2014年から大阪に移住したライターが、「コロナ後」の大阪の町を歩き、考える。「密」だからこそ魅力的だった大阪の町は、変わってしまうのか。それとも、変わらないのか──。
プロフィール
1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『QJWeb』『よみタイ』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、パリッコとの共著に『のみタイム』(スタンド・ブックス)、『酒の穴』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)がある。