21世紀のテクノフォビア 第3回

フランケンシュタインの怪物とクローン恐竜(後編)

速水健朗

■ダーウィンのあと出しジャンケン

人造人間に生命がやどり、倫理の枠をはみ出してしまう。ヴィクターは、それに向き合うこともできていない。この構図は『ジュラシック・パーク』の博士たちが突きつけられることとも通底する部分だが、19世紀に急速に進んだ生命科学の分野でも、同じような状況が科学者たちに降りかかっていく。

シェリーの作品が発表されて四半世紀ほど後のこと。1844年のイギリスで『創造の自然史の痕跡』なる当時の地質学、生物学などの知見が整理された内容の書物が刊行される。匿名の出版物。のちに著者はロバート・チェンバースと知られるようになるが、出版時は筆跡を隠すために妻に清書をさせ、知人を間に挟んで出版社とやり取りをした。それだけタブーに触れた内容だった。

この本に書かれていたのは、過去に絶滅した動物が多数存在すること。生物は世代を追って変化(進化)すること。そして、人間も動物から進化した生物であること。こうした内容は、当時でも科学に関心のある知識層では、とっくに知られた知識だったが正面切って指摘する一般向けの出版物はなかった。チェンバースが予想したとおり、本は猛烈な批判を受けた。

本への批判の先鋒は、アダム・セジウィックというケンブリッジの地質学の元教授でノリッジ大聖堂司祭だった。彼はこれを「邪悪な本」と呼び、85ページを超える批判を雑誌に載せた。「この著作は外見だけが立派で上品なので、女性の筆によるとしか考えられない」*2と。”女性の筆”というのは、”取るに足らない内容”という侮辱の意味で使っていたのだろう。ちなみにこの事態を目の当たりにして自分の本の刊行を一時取りやめたのは、チャールズ・ダーウィン。『種の起源』の刊行は、それから15年後は1859年のことだ。

ロバート・チェンバースの『創造の自然史の痕跡』の中の最大のタブーは、人間が別の動物から進化したという部分だ。生命を創造できるのは神のみ。人は神の姿を真似てつくられしもの。

そんな当時の生物化学の知見に対する当時の権威(宗教界)の反発の経緯を見ると、メアリー・シェリーの小説の内容が進歩的だったことがわかる。シェリーが生きていた時代に進化論や生物学の知識が周知されつつあった。同時に”神”の捉え方にも変化が生じていただろう。

■『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』は新しいフランケンシュタインの物語

シェリーの『フランケンシュタイン』は、博士に捨てられた人造人間が、人間の社会に触れることでさらに傷つき、暴走しやがてモンスターになっていく物語だ。モンスターは、自分を生み出し、捨てたフランケンシュタイン博士への復讐心を強めていく。

科学的な関心を持ってテクノロジー小説を書いたシェリーも、無生物が生を得る物語を悲劇として描いた。神への忖度があるのだと見える。非生物から生命を得たものが幸せになることは許されない。「フランケンュタイン・コンプレックス」にその意図が内包されているとするなら、恐竜と共存する『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』は、シニカルな意図が含められてはいても、なんとか共存をすすめようという話だ。フランケンシュタインから200年たって別の物語が生まれたということ。我々が日常生活で、遺伝子操作の食物とどう向き合っていくかは、また別のお話である。

*1『フランケンシュタイン・コンプレックス』小野俊太郎、青草書房

*2『進化論の進化史 アリストテレスからDNAまで』ジョン・グリビン、メアリー・グリビン著、水谷淳訳

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21世紀のテクノフォビア

20年前は「ゲーム脳」、今は「スマホ脳」。これらの流行語に象徴されるように、あたらしい技術やメディアが浸透する過程では多くの批判が噴出する。あるいは生活を便利なはずの最新機器の使いづらさに、我々は日々悩まされている。 なぜ私たちは新しいテクノロジーが生まれると、それに振り回され、挙句、恐れてしまうのか。消費文化について執筆活動を続けてきたライターの速水健朗が、「テクノフォビア」=「機械ぎらい」をキーワードに、人間とテクノロジーの関係を分析する。

プロフィール

速水健朗

(はやみずけんろう)
ライター・編集者。ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会について執筆する。おもな著書に『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)『1995年』(ちくま新書)『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)などがある。

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フランケンシュタインの怪物とクローン恐竜(後編)