21世紀のテクノフォビア 第7回

タワマン文学。人はいかに高所とエレベーターを克服したか(後編)

速水健朗

20年前は「ゲーム脳」、今は「スマホ脳」。これらの流行語に象徴されるように、あたらしい技術やメディアが浸透する過程では多くの批判が噴出する。あるいは生活を便利にするはずの最新機器の使いづらさに、我々は日々悩まされている。
なぜ私たちは新しいテクノロジーが生まれると、それに振り回され、挙句、恐れてしまうのか。消費文化について執筆活動を続けてきたライターの速水健朗が、「テクノフォビア」=「機械ぎらい」をキーワードに、人間とテクノロジーの関係を分析する。
前回に引き続きテーマは「タワマン文学」。近年タワーマンションなどを舞台に、都会の格差や嫉妬心を描いたTwitter発の小説がにわかに話題だが、そもそもなぜ高層住宅は嫌われるのか。その恐怖の根源を解き明かすと、ディズニーシーの「タワー・オブ・テラー」の怖さにたどり着く。

■タワマン、高層住宅フォビアはいつからあるか

タワーマンションには、アンチの人々も多い。景観を損ねている、上から見おろされるのが嫌、人間が生活するスケールに合わない、成金趣味が嫌、港区が気にくわないなどあらゆる理由でタワマンは嫌われている。

 

19世紀後半、ヨーロッパやアメリカの大都市では、5、6階建ての集合賃貸住宅が立ち並ぶようになった。長く地上に縛り付けられた人の生活が、垂直方向に伸び始めた瞬間である。同時に批判の声が持ち上がり始めた。

高層階の生活が人の健康に悪影響をもたらし、精神にも悪い影響を与える。なぜ当時の人はそう感じたのだろうか。中庭や庭などがない場所での暮らしは非人間的。コレラやチフス、結核などの温床になっている。上層階は夏の暑さや息苦しさから身を守ることができない。妊婦が階段を昇ることで死産率が高まる。このような批判が持ち上がった。高層住宅が持つ階段室への批判もあった。薄暗いとってつけたような通路は、本来、一軒家の階段や玄関が持つ、人と人のコミュニケーションの機能を果たしていないと。当時、高層住宅を批判した人々は、一軒家こそ人間の暮らすべき場所であると信じていたのだろう。

ただ、批判の中には、統計や科学的な根拠に基づくものも含まれていた。乳児死亡率や疫病による死者の数は、階数が高まれば高まるほど高くなっていた。この時代の都市部の賃貸集合住宅に住んでいたのは、産業革命以降に生まれた都市労働者層である。資産を持つ人々は、鉄道が広がる頃に、すでに郊外の広い住宅に移り住んでいる。

“高層階嫌い”を牽引したのは、ドイツの公衆衛生運動だった。彼らは、「賃貸住宅の特定の階層が有害である」(『金持ちは、なぜ高いところに住むのか』アンドレアス・ベルナルト 著 井上周平、井上みどり 訳)と主張し、統計数字や衛生学を利用し、高層階での暮らしへの批判を強めた。「公衆衛生運動」は、都市のあらゆる機能をデザイン・設計によってコントロールするという思想の運動である。彼らは、高層階をなくせば、都市の公衆衛生が改善すると考えていたのだ。

公衆衛生の根拠とされた、乳児死亡率や疫病による死者の数は当時の高層階の暮らしを現すものとして正しいものだったに違いない。だが、統計数字を扱う際には、相関関係と因果関係の違いを踏まえる必要がある。高層階での生活が人の健康被害をもたらしたのではなく、単に貧困家庭が高層階に住んでいた割合が高かった可能性が高い。

当時は、高層階ほど家賃が安かった。貧困層は、高層階に住まざるを得なかったのだ。公衆衛生推進者たちの高層階をなくせばいいという発想は、「貧乏人はパンがないのならケーキを食べればいい」に近い。ちなみに、なぜ高層階の家賃が安かったのか。日々階段を上り下りするのが不便だったから。そのルールが変わるのは、エレベーターの普及以降ということになる。

■そもそも人は都市を嫌うもの

高層住宅嫌いの前に、”都市嫌い”について論じる必要がある。人工物に囲まれた空間を人間は好まない。人工物を生み出したのは、自分たちであるにもかかわらず、それが苦手ということになる。19世紀末以後の都市では、高層階での生活が当たり前になっていくが、それは人工物に囲まれた人工的な空間での生活だった。都市嫌いとテクノロジー嫌いは、多くの部分で重なっている。

また、都市嫌いが、よそ者嫌いでもある場合がある。

1919年に成立したアメリカの禁酒法は、実質的にアメリカ人の都市嫌いから生まれた法律である。勤勉、倹約、節制をモットーとしたプロテスタントの生活を送っている人々と、都市に住む酒を飲む労働者たちは、そもそも折り合いがよくなかった。

当時の主な都市住民とは移民である。ヨーロッパに限らず、中国系、アフリカ系も多かったが、ヨーロッパからの移民たちが飲酒の主な当事者たちだ。ドイツ系はビール、アイルランド系はウィスキー、イタリア系はワイン。酒場、バーはこうした移民労働者たちの交流の場として機能していた。禁酒法には、彼らが気にくわないという理由で賛成した者たちが多かった(それが全部ではないが)。

地域の保守的な宗教運動として始まった禁酒運動が、社会運動に発展し、ポピュリズム的な性質の政治家たちが乗っかり、禁酒法の成立に至っている。

禁酒法を支持したのは、非都市部に住むアメリカ人たち。逆に都市部に住むアメリカ人たちは、無関心だった。むしろ自分たちの権利を主張するかのように飲酒にいそしむ。アメリカの酒量はこの時期に増えた。わざわざ尻ポケットに蒸留酒を入れて持ち運ぶための携帯瓶が流行ったのもこの頃のこと。

一方、禁酒法は、富裕層たちの生活には、何も影響を与えなかった。彼らも、自分たちは無関係とばかりに飲酒を続けた。その様子は、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』(1925)にもはっきりと描かれている。

この小説の登場人物たちは、終始カクテルパーティーを楽しみ、酒を飲んだまま自動車の運転までしている。ちなみに禁酒法以前に買った酒を家で飲むのは合法。外でのパーティの際も高級ホテル(プラザ・ホテルが登場する)のスイートルームを借りて行われている。法律的には問題ないとはいえ、とにかく酒はたくさん飲んでいる。

そもそも、主人公のジェイ・ギャツビーは、酒類の闇営業で荒稼ぎをするマフィアと手を組んで金銭的に成功した成金である。映画やドラマでは、FBIや対抗組織とマフィアの戦いが描かれるが、構造をよく見れば、マフィア(都市に住む移民層)が対立していたのは、農村部の宗教保守層なのだ。アメリカの都市部と非都市部の対立は、トランプ時代より少なくとも100年は前から存在した。

■エレベーターの安全がまださほど信じられていない時代

ジョン・レノンとオノ・ヨーコが住んでいた(その後ヨーコは住み続けている)アッパーウェストのセントラルパーク沿いに建つダコタ・ハウスは、1880年着工、1884年竣工である。10階建ての高級集合住宅の最初期のもの。ちなみに設計者のヘンリー・J・ハーデンバーフは、プラザ・ホテルの設計者でもある。

ダコタ・ハウスの計画時には、1、2階にもっとも大きな部屋を割り当て、8、9階は洗濯室、配膳・貯蔵室、使用人部屋として使われる想定だった。19世紀末のニューヨークの高層住宅でも、上層階に使用人が住み、金持ちは下層階に住むというのは今の発想とは逆だが、それが当たり前だった時代があったのだ。

ダコタ・ハウスには、当初からエレベーターが付いている時代である。なぜ、上層階に金持ちは住まなかったのか。ハーデンバーフは、「エレベーターはいまだ何か珍しいもので、完全には信頼できなかった」(『金持ちは、なぜ高いところに住むのか』)と述べている。エレベーターは、すぐに信頼されたわけではなかったのだ。

建築史家のエリザベース・ホーズは、「建物の最上階で暮らしたいと思っていたのは、建築家と芸術家だけ」(前掲書)と、20世紀初頭の10年くらいの時期の状況を指摘する。つまり、変わり者や進歩主義者しか最上階に住もうとはしなかった。”バカと煙は〜”によく似た話である。

“嫌い”と”怖い”と”信頼できない”といった感情が混ざり合い、人々は高層階での暮らしに踏み出せないでいた。そして、それらが解消されるようになるタイミングが、1920年代くらいを境に訪れる。

さて、これらの知識を踏まえて、前回取り上げたディズニーシーの「タワー・オブ・テラー」の話に戻そう。

「時は1912年のニューヨーク。1899年に起きたオーナーの謎の失踪事件以来、恐怖のホテルと呼ばれるようになった」

これがこの「タワー・オブ・テラー」のアトラクション説明。1912年を舞台にした、14階建て建造物のエレベーター落下事故を模した乗り物である。最上階に住むハイタワー3世が主な登場人物である。

1910年代、高層階、エレベーター落下事故が、この乗り物の前提である。設定上、このエレベーターは、屋敷がホテルに改修された1886年に付けられたという。その事故を起こしたものとは別のエレベーター(ライド)に客は乗る。とはいえ、何が起こるかは明らかである。

■「タワー・オブ・テラー」で仕掛けられた演出

このアトラクションでもっとも恐怖を煽る演出は、呪術人形シリキ・ウトゥンドゥの呪いではなく、スタッフ(キャスト)がシートベルトを念入りにチェックするところだ。他のアトラクションでも安全確認は行われるが、「タワー・オブ・テラー」ほど厳密ではない(気がするだけかも)。

乗客は、すでに14階建ての建物の外観(59メートル)を見ている。この威圧的な建造物は、場内のいろいろな場所から見える。そして、ライド(つまりエレベーター)の中に入り、シートベルトを締め、扉が閉められると、箱は上昇し、最上階に住むハイタワー3世の部屋に向かう。

ライドに乗る前は、てっぺんまでは行かないだろうとたかをくくっていた。そこには希望的観測も含まれていた。スリルは味わいたいが10数階分を一気に落下するのは怖い。ただ、その希望的観測は、しばらくして否定される。数秒間、ドアが開き、園内を一望する外の景色が視界に広がる。同時に自分が居る場所が思ったよりも高いことに驚く。本当に高層階まで昇らされていたのだ。そして、いま目の前に広がる光景が現実のものなのか確認しようと目をこらした瞬間、ライドは再度、急落下を始める。このあたりの計算が絶妙である。

風景はギミックではない(ディズニーシーが作りものであることはさておき)。だが、このとき到達している高さは、最上階(59メートル)付近ではなく、その約3分の2の38メートルである。アトラクションから外に出た後に、建物を振り返ってみた。自分が見た光景がどこの高さのものだったのかを確認しようと思ったのだ。よく見れば確認できる。ここでやっとこのライドのギミックに気がつくのだ。周囲の人々も何度も振り返っている。並ぶときから降りて振り返るまでがディズニーシーのアトラクションである。

ちなみに、タワー・オブ・テラーは、乗るタイミングによって内容が変わるようだ。僕が乗った特別版では、呪術人形のシリキ・ウトゥンドゥがエレベーターのワイヤーを切ろうとする場面が描かれていた。これは子ども向けの演出である。たいして怖いわけではない。とはいえ、実際にエレベーターのワイヤーが切れたらどうなるか。

実際のエレベーターには、爪状安全装置によって落下を防ぐ機能がある。それが、タワー・オブ・テラーの設定である1912年に存在したのか。答えは、すでにあった。むしろ、ハイタワーの屋敷がホテルに改修された1886年に付けられたエレベーターということを踏まえても、その時期には爪状安全装置が普及している。シリキ・ウトゥンドゥがエレベーターのワイヤーを切ったところで、地上まで一気に落下することはないということになる。

爪状安全装置とはどのような仕組みのものか。それを知るには、キアヌ・リーブスの主演映画『スピード』(1994)を見ればいい。冒頭のシークエンスで落下するエレベーターの場面がある。

超高層ビルに侵入した爆弾魔(デニス・ホッパー)が超高層ビルのエレベーターのケーブルに爆発物を仕掛ける。高層階の会議室から出てきた社員たち13名を乗せたエレベーターボックスが狙われる。超高層ビルは、50階以上のフロアだろう。40数階に差し掛かったときに爆弾魔は、遠隔操作でケーブルを爆破する。エレベーターは急落下するが、10数階分落ちたところで爪状安全装置が作動する。実際にそれが作動するタイミングがリアルに描かれているのかはわからないが、10数階分落ちるのであればかなり怖い。

落下は安全装置によって食い止められる。だが、犯人の目的は、宙づりでエレベーターボックス内の人々を人質として閉じ込めることにあった。犯人は、多額の身代金を要求する。次の爆弾が作動すれば全員が落下する。犯人は爆弾を爪状安全装置に仕掛けていたのだ。エレベーターの安全装置の仕組みに通じている。むしろ、安全装置が二重であることを利用して、この犯罪を計画したのだ。

■地上のくびきから解き放たれた生活

話を戻すと爪状安全装置が普及したことでエレベーターの安全性が確立され、人々の心理的な恐怖も消え、定着に結びついた。

1854年にイライシャ・グレイブス・オーティスという人物が、公衆の面前でエレベーターの台を上昇させ、自らロープを切断して見せたというエピソードは、これまでも取り上げてきた『金持ちは、なぜ高いところに住むのか』という本の中でも取り上げられている。ただし、エレベーターが普及したのちに、その起源を示す伝説的逸話としてピックアップされるようになった話だという。「十九世紀半ばに多くの機械技師たちがあげた声のひとつにすぎない」と著者のアンドレアス・ベルナルトはいう。

高層階での生活は、単にテクノロジーによってもたらされたわけではない。人が地上のくびきから解き放たれ、高層階で暮らすようになるには、多くの段階を経る必要があった。まずそれへの偏見や嫌悪があり、安全のための技術が生まれ、そこに住む奇人や変人が登場し、さらに半世紀以上の時間が経過してようやく垂直方向に居住空間が伸びるようになったのだ。

ここまで読んだ人たちは、「タワー・オブ・テラー」に乗りたくなっただろう。ちなみに、普段より急降下・急上昇が倍増した「タワー・オブ・テラー”アンリミテッド”」の公開期間は、本日2023年3月17日(金)までである。

 第6回
第8回  
21世紀のテクノフォビア

20年前は「ゲーム脳」、今は「スマホ脳」。これらの流行語に象徴されるように、あたらしい技術やメディアが浸透する過程では多くの批判が噴出する。あるいは生活を便利なはずの最新機器の使いづらさに、我々は日々悩まされている。 なぜ私たちは新しいテクノロジーが生まれると、それに振り回され、挙句、恐れてしまうのか。消費文化について執筆活動を続けてきたライターの速水健朗が、「テクノフォビア」=「機械ぎらい」をキーワードに、人間とテクノロジーの関係を分析する。

プロフィール

速水健朗

(はやみずけんろう)
ライター・編集者。ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会について執筆する。おもな著書に『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)『1995年』(ちくま新書)『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)などがある。

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タワマン文学。人はいかに高所とエレベーターを克服したか(後編)