客引きのジャッキー
ゲストハウスの外に出ると、深夜の静かな不気味さと打って変わって、目に刺さるほど視界が明るく、クラクションは鳴り響いていた。オートリキシャ(三輪の小型タクシー。トゥクトゥクともいう)の間を人が縫うように歩き、路上にはたくさんのメヘンディ描きたちが座っている。甘いシロップが溢れ出すお菓子や、美しい布や飾り物。ほこりっぽくて、人がぎゅうぎゅうで、喉が痛い。そのエネルギーに飲み込まれてしまいそうになりながらも、歩き始めた。
歩き始めてすぐ、ジャッキーという男が声をかけて来た。ヴィッキーとかジャッキーとか覚えづらいなと思ったけれど、私の横を着いてくるし少し喋ってみた。どうやら、客をレストランとか土産物屋に連れて行ってマージンを得る仕事をしているようだ。いまからどこに行くの?と聞いてくるので、とりあえずお腹がぺこぺこだから何かを食べに行くところと言ったら、「いいレストランを知っているよ!」と近くのKrishna Cafeという眺めのいいところに連れて行ってくれた。
メインバザールを上から見下ろすことができて、気持ちの良い場所だった。人や牛、リキシャ(自転車につけた座席に客を乗せて人力で漕ぐタクシー。「人力車」が語源)が混じり合ってうごめく様子は、ずっと見ていられる。チキンビリヤニとチャイを頼んでみた。食事も、お手頃な値段だった。ジャッキーは私を連れてきたことで、本当にこのレストランから少しお金がもらえるのだろうか?
チキンビリヤニが運ばれて来た。だいぶ辛いけど、めちゃくちゃ美味しい。スパイスの香りが喉の奥をゆっくり刺激する。付け合わせのヨーグルトが辛味をマイルドにしてくれて、よく合う。辛いものは苦手だけど、これは美味しかった。ジャッキーにも一緒に食べる?と聞いたが、ランチは食べたからもういらないという。チャイは飲みたいというから、二人分頼んでみた。
チャイを飲みながら、ジャッキーに「メヘンディ描きが集まる広場を知っている?ジャンパットの近くって聞いたんだけど」と聞いてみると、ジャッキーは「ああ、ハヌマーン寺院ね。もちろん知っているよ!行きたいなら連れて行ってあげるけど」と言った。ジャッキーの目は、濁っていなかった。とりあえず着いて行ってみるか、とレストランを出てジャッキーの後ろをついて歩いた。
「明日からうちに住みなよ!」
ハヌマーン寺院の広場は、常に人が行き来する場所だ。ニューデリーの中心地であるコンノート・プレイスからバングラ・サヒーブ・グルドワーラーというシィク教寺院に行く途中にあり、ハヌマーン寺院目当てで来る人やグルドーワーラーに行く人、買い物ついでにただ通る人々が行き交い、いつも賑わっている。
広場の両脇ではたくさんの人が簡易的なプラスチックの椅子に看板を立てかけ、パラソルで日よけをし、メヘンディの店としている。広場の向こうに行くには両脇を占拠する店でできた通路を通らないといけないので、ここを通るときの客引きの強さが尋常ではない。メインバザールには男性のメヘンディ描きが多かったが、ここは女性のメヘンディ描きが多いように見える。ジャッキーが言うにはメインバザールに男が多いのは「インド以外の国からのツーリストが多く、英語を喋れる男の方が商売をしやすいから」らしい。逆にハヌマーン寺院の広場に女が多いのは、インド人がメインの客だからだそうだ。
すると突然、その場にいたメヘンディ描きの女性が私に「メヘンディやりませんか」と言って手を取ってきた。私が「私もメヘンディ描きなんだよ」と返すと「へえ、あんたもメヘンディ描きなの!面白いね」と言って隣に座るように言われた。彼女の名は、マンジュリ。小柄だけれど、パーンと弾けるような元気のある女性だった。
マンジュリは、過去に有名人にメヘンディを施したことや、もうすぐカルワチョートというお祭りがあるということ、そしてその祭りはメヘンディ描きの稼ぎどきなんだよということを教えてくれた。
家族の話もたくさんしてくれた。家族構成は警察官の夫ハリシュ、長男の彫り師兼メヘンディ描きのアマルジート、長女の専門学校生兼メヘンディ描きのミナクシ、次女の高校生兼メヘンディ描きのラヴィーナの五人家族。私も、メヘンディやメヘンディ描きについて研究したいと思っていることや、自分の家族の話などをした。そんなに面白いことを言っているつもりはないのに、私がなにか言うといちいちケラケラ笑う人だった。
そうやって話しているうちに、マンジュリがいきなり、「明日から一緒に働こうよ!それだけじゃなくて、明日からうちに住みなよ!」と言った。私は突然の申し出に驚いた。
え、マジで言ってんの?なにか裏があるのか・・・・・・?だって、出会ってまだ数十分も経っていない。
いろんなハテナが頭を埋め尽くすが、マンジュリの目は、笑ってしまうくらい、明らかにクリスタルだった。めっちゃクリスタルじゃん。そう思うと同時に、これは面白くなりそうだというワクワクが私の心を占拠した。
「本当に一緒に働いていいし、家に住んでいいの?」と訊くと、「メヘンディの売り上げの半分は渡すという契約だよ」とマンジュリは言った。契約成立、私はマンジュリの家に住み、店でメヘンディ描きとして一緒に働くことになったのである。そんなこんなで、予想もしていなかったデリーでのフィールドワークが始まった。
インドの経済自由化が生んだメヘンディ描きと路上のバイブス
インドでは1980年代から始まった経済自由化によって、都市に出稼ぎにやってくる人々が増加した。それらの人々の多くは路上でモノを売ったり、耳かき屋を始めたりと様々なアイデアで路上を舞台にビジネスを始めた。マンジュリも幼少期に、この経済自由化の流れに乗ってインド北東部のビハール州からデリーに流入してきた人々のうちの一人だ。彼女がいたビハール州は仏教の聖地・ブッダガヤがあることで有名だが、経済的にはインドのなかでとくに貧しい地域である。
マンジュリの両親は、マンジュリが3歳のころにデリーへ移り、コンノート・プレイスのバングラ・サヒーブ・グルドワーラー(シィク教寺院)の近くの路上で、寺院関係のグッズ小売店を営んでいた。マンジュリ含め、7人の子どもがいた。
ハヌマーン寺院の広場でメヘンディ・ビジネスが始まったのは1985年頃。マンジュリの親戚にあたる人がここでメヘンディ・ビジネスを始めた最初の人であるという。インドにおけるメヘンディはもともと親族同士、友人同士で描き合うものであった。お客さんからお金をもらう、いわゆる本格的なビジネスとしてメヘンディが始まったのは、1970年代後半。最初は、ブロックプリント用の木版にヘナペーストをつけ、スタンプのようにしてメヘンディを肌に染める形式を誰かが考えつき、ビジネスとして始めたのだそうだ。それが流行したことによって、メヘンディを施してもらった対価として金銭を支払うということが定着する。1970年代以降、メヘンディを施術する/される人の関係は、親族・友人同士から施術者と客という関係に変化していったのである。1980年代になると、アルミ箔、ビニールなどで作った円錐形のコーンにヘナペーストを詰め、絞り出し模様を描き出す現在の方法が確立された。
マンジュリは11歳の頃から、学校に通いながらハヌマーン寺院の広場でメヘンディを描いていた。もっとも描き始める前から学校が終われば路上のお店を手伝っていたから、彼女はずっと路上や広場で人間関係を築いてきた。17歳で恋愛結婚した夫のハリシュと出会ったのも、このハヌマーン寺院の広場だ。警察官の彼が違法な出店を取り締まろうとしていた時に、取り締まり対象だったマンジュリに一目惚れしたことがきっかけだそうだ。そこから息子が生まれ、娘たちも生まれ、その子達もいま、この広場でお金を稼いでいる。
インドでは経済自由化に伴い、人々が路上に出て、どんどん新たな仕事を生み出していった。その舞台の一つがハヌマーン寺院の広場だ。この広場は、人々が様々なアイデアを実践し稼ぎを得る仕事場であると同時に、人と人とが交差し、新しい関係性を築いていく場所だ。人々の営みとともに、絶え間なく、新たなバイブスが生み出されていく。
2015年のインドでも一番活気があって力強いのは路上の商人たちである。だから、ふらっとやって来た私のような人は、そのダイナミズムにいとも簡単に飲み込まれてしまう。ジャッキーも、マンジュリも、路上や広場で生きてきた力強さで私を巻き込み、結節点を作り出し、そこから新たな関係性を生み出していった。
マンジュリにとって私は「ふらっとやって来たなんとなくバイブスの合う面白いヤツ」だったのかもしれない。なんなら、猫でも拾って来たよーというノリだ。とにかくマンジュリにとっては、この広場であたらしい人間関係をつくるのは「ふつうのこと」なのである。ふらっと来たものを面白がって受け入れる力――それこそが彼女の路上で培ってきた生きる力なのかもしれない。私は、東京で偶然会った旅人に「うちに住みなよ!」と言えるだろうか?そんな思いを抱えながら、日本から持ってきた重いリュックをかついで、マンジュリの座る石段の横に置いた。
(次回へ続く)
文化人類学専攻の学生、ヘナ・アーティスト、芸術教育アドバイザーとして、様々な国で暮らしてきた「生命大好きニスト」長井優希乃。世界が目に見えない「不安」や「分断」で苦しむ今だからこそ、生活のなかに漂う「空気感」=「バイブス」を言語化し、人々が共生していくための方法を考えていきます。
プロフィール
「生命大好きニスト」(ヘナ・アーティスト、芸術教育アドバイザー)。京都大学大学院人間・環境学研究科共生文明学専攻修士課程修了。ネパールにて植物で肌を様々な模様に染める身体装飾「ヘナ・アート(メヘンディ)」と出会ったことをきっかけに、世界各地でヘナを描きながら放浪。大学院ではインドのヘナ・アーティストの家族と暮らしながら文化人類学的研究をおこなう。大学院修了後、JICAの青年海外協力隊制度を使い南部アフリカのマラウイ共和国に派遣。マラウイの小学校で芸術教育アドバイザーを務める。