「トップでいられないのなら……」
ディレクターの白井もまた日本女子体育大学を卒業している生粋のアスリートであった。愛知県の豊川市立西部中学校から陸上競技を始め、わかしゃち国体マスゲームの中学部門・指導責任者、県下で名指導者として知られた岩瀬金道の薫陶を受けた。岩瀬の指導方針は、短距離、中長距離、跳躍、種目に関係なくまず徹底的にハードルを跳ばせるというものであった。「ハードルはすべての動きに繋がる」という持論が有り、実際、股関節を自然と意識するハードリングの技術を高めることで、岩瀬のコーチを受けた選手は記録を伸ばしていった。
白井もまたスプリンターとして100m、200mなどで活躍し、名古屋女子大学高等学校に進んだ。高校2年のときには4×100mのリレーメンバーとして鳥取インターハイの準決勝まで進み、3年時には400mハードルで同じく高校総体に出場している。スプリントを発揮する無酸素運動に加えて、持久力のための有酸素の活動も求められるために、最も過酷なトラック競技と言われる400mハードルに挑んだのだ。
全国レベルの選手である白井がユニークなのは、子どもの頃から足が速く、そしてそのことに対する強烈なプライドを持ち合わせていたことである。小学生のころに同学年がいっせいに走る長距離が毎年行われていたが、4年までダントツの1位だった。ところが、5年生のときに直前に抜かれて2位になってしまった。すると6年は勝負を避けて69位。6年連続でのトップという目標が途絶えてしまったので、流してしまったのである。日女体への進学に際しても同様のことがあった。スピードランナーとして100mに対する拘りが強くあった白井は、入試の実技科目の同種目で2位になると、さっさと陸上を辞めてサッカー部に入部してしまうのである。「トップにいられないなら団体競技のサッカーに」というわけである。
そんな白井であるからこそ、対象がパラリンピアンと聞いて「障がい者スポーツかあ」という気持ちがあった。それには明確な理由があった。陸上のオランダ代表のマールー・ファン・ライン(両膝下切断T43クラス ※当時)が100mで世界を制したときの記録が12秒80。実はこのタイムは白井が高校1年秋の新人戦で名古屋南支部で優勝したときの記録と同じであった。だからこう回顧する。「正直、私の高校時代のベストで世界記録なんだ。そういう見方で観ていました」
白井はオーストラリアに飛び、エリーの密着取材を開始した。白井はひとつの提案を太田にした。「WHO I AM」というタイトルだから、シリーズ全般で、アスリートたちに自分について朗読させるのはどうだろう」エリーはこれを完璧にこなすことになる。
白井ディレクターとエリー・コール
(C)Paralympic Documentary Series WHO I AM
内戦で足を失った選手、宗教上の制約で女性が活躍できない国に生まれたアスリート……。パラリンピアンには、時に五輪選手以上の背景やドラマがある。共通するのは、五輪の商業主義や障害者スポーツに在りがちなお涙頂戴を超えた、アスリートとしての矜持だ。彼らの強烈な個性に迫ったWOWOWパラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ「WHO I AM」。番組では描き切れなかった舞台裏に、ノンフィクション執筆陣が迫る。