彼女に勝ちたい
オーストラリアの代表になることは並大抵のことではなかったが、さらなる努力を重ねて16歳で北京パラリンピックに出場を果たした。尊敬して止まないナタリーはこの北京大会においてオープンウォーター種目、すなわちパラリンピックのみならず、オリンピックにも南アの代表選手として出場していた。結果は圧巻だった。女王はオリンピック出場後にエントリーしていたパラにおいて自由形、個人メドレーで合わせて5つの金メダルを戴冠した。エリーは100mバタフライでナタリーに次いで銀。ついに究極のヒロインと一緒に表彰台に乗ったである。
「ナタリーは隣にいる私を『この子誰?』って感じで私を見ていたわ。私はどこから、どもなく現れたから」
光栄に思うと同時に新しい感情が込み上げて来た。それは金メダリストの栄誉を讃えて南アフリカの国歌が流れてきたときである。
「口惜しさと言うか、そのとき私は猛烈に次はオーストラリアの国歌を聞きたいと思ったの」
(C)Paralympic Documentary Series WHO I AM
憧れるだけの存在だったナタリーに対してライバルという意識が芽生えた。エリーは他にも100m背泳ぎで銅、400m自由形で銅、合計3つのメダルを獲得したが、それについても「誰も銅メダルが欲しくてパラリンピックに出ないわ」とまで考えるに至った。代表になるだけで舞い上がっていた2年前の世界選手権のときとは、意識がすっかり変わっていた。
「ナタリーがオリンピックにまで出場したことは、パラリンピック選手の能力がどれほど高いかを世界に示しているのだから、彼女のことをすごく誇らしく思ってた。説明がしづらいんだけど、当時私は彼女に負かされることをそれほど気にしてなかった。それすらも誇らしいと。ただあのとき、心の奥深くでは彼女に勝ちたいって思ったの」
北京後、金メダルを十分狙える逸材を目されたエリーはAIS(オーストラリア国立スポーツ研究所)に招集される。AISは国家機関として優秀なアスリートを全面的にサポートする組織であるが、これがまたエリーを苦しめることとなる。
内戦で足を失った選手、宗教上の制約で女性が活躍できない国に生まれたアスリート……。パラリンピアンには、時に五輪選手以上の背景やドラマがある。共通するのは、五輪の商業主義や障害者スポーツに在りがちなお涙頂戴を超えた、アスリートとしての矜持だ。彼らの強烈な個性に迫ったWOWOWパラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ「WHO I AM」。番組では描き切れなかった舞台裏に、ノンフィクション執筆陣が迫る。