マーク・キングウェル『退屈とインターフェース』を読む 第3回

「ステイホーム」でスマホから離れられなかった私たちが、ポスト・トゥルースについて考えるべきこと

③スクリーンという「怪物」
上岡伸雄

 外部への検索やリクエストが記録され、選択を決めさせるプログラムに注入されているあいだに、同じ企業のテクノロジーが我々の家庭内に持ち込まれている。不格好なスマートTVや、内部のモニターで食べ物の新鮮さをチェックする冷蔵庫などから始まったものが、どこにいても声をかけるだけで応えてくれる個人的アシスタントに変わってきた。あなたが望むものを何でも与えてくれるのだが、それに対する代償はあなたの言葉を記録することだ。アレクサという名で知られているアマゾンのエコーの技術や、グーグル・アシスタント、部分的に成功を収めたアップルのシリは、話しかけるだけで音楽のリクエストに応えたり、電話をかけたり、チャンネルを替えたり、映画のチケットを取ったり、天気予報を教えたり、ディナーを予約したりして、消費者の想像力を支配するようになっている。これを書いている時点では、まだ比較的珍しい贅沢品であり、プライバシーが失われることや、同一企業にすべて取り込まれるといった末梢の対価は、幸せなユーザーにとっては些細なことに思われる。このシステムを褒めちぎる最近の広告は、山腹の温かい家でくつろぐ極端に豊かな家族を描いている──『アーキテクチュラル・ダイジェスト』のページから取ったようなモダニスト的な家で、下僕かつ監視者である見えない機械に気まぐれな希望をすべて叶えてもらい、彼らはご満悦だ。五十代のごま塩頭のハンサムな父は嬉しくてクスクス笑う。幸福を表わす光景として、そのメッセージはこの上なく明白である。親密な家族の一糸乱れぬ統一、物質的豊かさ、欲求の充足、そして上機嫌、こうしたものはすべてあなたの会話を記録し、あなたの選択をたどるシステムによって成し遂げられる。明らかに、こうした家庭内の奇跡に恵まれていない者は敗者なのだ。

IYO / PIXTA(ピクスタ)

 

 もちろん、誰もが知るように、テクノロジーは使われることで急速に驚異的ではなくなっていき、今日の奇跡は明日の忘れられた家具となる。あらゆる場を取り仕切るスクリーンは(不気味な比喩のどれを選んでもよいが)吸血鬼であり、ドラッグの売人であり、ゾンビのウイルスである。アメリカ人は毎日平均で3時間から4時間、電話を見て過ごし、あらゆる種類のスクリーンの前で11時間も過ごしている。したがって次の革命は、スクリーンから離れて完全に没入することになるだろう。我々は2018年にほぼ間違いなくスクリーンの上限の段階に達しているので、インターネットのテクノロジーが家庭も町もオフィスも覆いつくす近未来に入っている。インターフェースはいまや我々の環境そのもの。文字どおり空気中に存在する。いや、もっとだ──空気そのもの。毎日吸い込み、すぐに満足を得られる空気なのである。この次の変革への強力な支持者の一人、ファルハド・マンジュー(訳注:1978年生まれのテクノロジーコラムニスト)は、脱スクリーンの個人アシスタントが「何か新しいものを提供する」と述べる。「それは大きなスクリーンに縛られていないモバイル・コンピュータだ。動き回っているあいだに仕事を済ませられ、吸い込まれる危険はない。想像してみてほしい。アプリをひたすら叩き続ける代わりに、エアポッドにただこう言えばいいのだ──〝七時にディナーの予約をしておいて〟とか〝今週、夜に二人で外出できるかどうか、妻の予定をチェックしてくれ〟とか」。そう、想像してみてほしい!

naop / PIXTA(ピクスタ)

 

 完全に没入型のテクノロジー環境を支持するレトリックで目立つのは、賢人ぶった警告と、インターフェースの支配への新しい動きをわざと無害に見せようとすることとが結びついている点である。「スクリーンは飽くことを知らない」とマンジューは言う。「認識のレベルにおいて、スクリーンはあなたの関心を貪欲に求める怪物であり、それを見てしまった途端、あなたは基本的に終わりである」。実際、習慣的ユーザーの近くにスマートフォンがあるだけで、その人の認識能力が制限されることは、いくつかの研究が示している。多くのテクノロジー批評家たちが、スクリーンを見て過ごす時間に埋め込まれた中毒性の特徴について真剣に語るようになった──歴史上最大の利益をあげている会社のいくつかに捕獲され、経済的かつ個人的な代償を払うことについてはもちろんのこと。「スマートフォンは実に魅力的で、それが目につくところにあれば、見ないようにするには貴重な精神的エネルギーを費やさなければならなくなる」とマンジューはいまやお馴染みとなった警告を発する。彼が提案する解決策は二通りだ。最初のオプションは、意志の力を使い、場合によってはアクセスを制限するために作られたメタ・テクノロジーの助けを借りて、電話に抵抗すること。たとえばスクリーンタイムは、あなたがどれだけの時間を電話で過ごしているか示す機能があり、選んだアプリへのアクセスを遮断することもできる。ほかにサイトを遮断するアプリとしては、フリーダム、セルフコントロール、アップデトックス、コールド・ターキー、ブロックサイト、ステイ・フォーカストなどがある。より最近の自己管理アプリにはモーメントがあり、これもスクリーンを見ている時間を測るし、フォレストというグラフィック・アプリは、デバイスを使っていないとスクリーン上に健康な木が育つようになっている──そして、デバイスを開いた途端に木は枯れる。

(第4回へ続く)

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 第2回
第4回  
マーク・キングウェル『退屈とインターフェース』を読む

「ステイホーム」の号令下で、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多かったのではないだろうか。スマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増え、コミュニケーションから生活、余暇のすべてがこうしたデバイスに支えられていることを実感しただろう。カナダでポピュラーな哲学者・Mark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らした『退屈とインターフェース』から、現下の状況に関わりの深い第二部をアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。

関連書籍

テロと文学 9.11後のアメリカと世界

プロフィール

上岡伸雄

1958年生まれ。翻訳家、アメリカ文学研究者。学習院大学文学部英語英米文化学科教授。東京大学大学院修士課程修了。1998年アメリカ学会清水博賞受賞。フィリップ・ロス、ドン・デリーロなど現代アメリカを代表する作家の翻訳を手がけている。著書に『テロと文学 9.11後のアメリカと世界』、『ニューヨークを読む』、訳書に『リンカーンとさまよえる霊魂たち』、『ワインズバーグ、オハイオ』、共著に『世界が見たニッポンの政治』など。

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