なぜ働いていると本が読めなくなるのか 第3回

大正時代の読書と労働―「教養」が隔てたサラリーマン階級と労働者階級

三宅香帆

1.大正時代の社会不安と宗教・内省ブーム

●効率重視の教養は、今に始まったことなのか?

毎月、現代を切り取るテーマを扱う雑誌『中央公論』。本書が2023年1月――つまり今年の新年号に掲げたテーマは、これだった。

特集「効率重視の教養は本物か」

インターネットが普及して以来、情報収集やコンテンツ受容のあり方は様変わりしている。SNSや動画などを駆使することで手軽に知識が得られるメリットは大きいが、他方でそこに落とし穴はないだろうか。

従来の教養とは異なる価値観の台頭について、多様な立場から考えてみたい。

(『中央公論』2023年1月)

書籍や雑誌の時代から、インターネットの時代を経て、現在「効率重視の教養」が台頭している――そのような主張をなす特集だ。

これは本連載の第一回で指摘した、読書法や速読術等の流行が示しているものとほぼ同様の現象だろう。同じく「効率重視の教養」の存在を指摘するのは、2022年刊行の新書『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(レジ―、集英社新書)。本書は昨今の「教養」が、ビジネスの競争社会と紐づく商品となっていることに注目する。

手っ取り早く何かを知りたい。それによってビジネスパーソンのライバルに差をつけたい。そうしないと自分の市場価値が上がらない。成長できない。競争から脱落してしまう……。

 今の時代の「教養が大事」論は、そんな身も蓋もない欲求および切実な不安と密接に結び付いている。ビジネスで役に立つ知識としての教養、サバイバルツールとしての教養。そういう風潮と歩調を合わせるかのごとく、中田敦彦は自身のYouTubeチャンネルを「新時代を生き抜くための教養」と銘打ってスタートさせ、堀江貴文は自著で「骨太の教養書を読め」と煽る。

 現代のビジネスパーソンは、なぜ「教養が大事」というかけ声に心を揺さぶられてしまうのか。

(『ファスト教養』[i]

たしかに昨今の「教養」と銘打った書籍には、「ビジネスに役立つ」といった語彙が付されていることが多い。しかし一方で、そのような「効率重視」の教養の在り方は、はたして今に始まったことなのだろうか。つまりインターネットが登場する以前の教養、あるいは『ファスト教養』が指摘する「今の時代」より前の教養は、はたして「効率重視」ではなかったのか。

もっと言ってしまえば、働きながら読書する人々が、効率を求めていない時代があったのだろうか?

この問いを考えるために、インターネットがこの世に登場する遥か以前、大正時代まで遡りたい。まさに雑誌『中央公論』がエリート層に「教養」を提供していた時代のことである。

『中央公論』のような総合雑誌が流行し、「教養」という言葉が浸透し始めた大正時代。当時生きていた労働する人々は、教養、そして読書そのものといかに向き合っていたのだろうか?

[i] レジ―『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社、2022年)

●読書人口の増加

大正時代、日本の読書人口は爆発的に増大した。
日露戦争後、国力向上のために全国で図書館が増設された。小学校を卒業した人々の識字率を下げないために採用された手段が、読書だった。地方に至るまで日本の隅々に図書館が誕生し、それによって爆発的に読書人口は増えた。[i]
さらに大正時代、出版界において現代にまで続く再販制――再販売価格維持契約制度が導入され始めた。これは出版社側が定価を決定する制度であり、これによって客に本が値切られることがなくなる、画期的な制度なのだ。さらに返品ができる制度が広まり、書店は売れる見込みのある本を大量に仕入れることができるようになった。そしてその結果、書店の数もまた急速に増加。明治末の書店数は約3000店だったのに対し、昭和初期には10000店を超えるようになったというのだから驚きだ。[ii]
さらにこの時代、時間もあり読書への意欲もある、「大学生」という身分の青年が増えた。私立大学が次々と創設され、高等教育を受けられる人口がまた増大したのだ。[iii]この結果は大正時代のベストセラーにもよく反映されている。たとえば阿部次郎『三太郎の日記』(第壱:東雲堂、第弐、第参:岩波書店)[iv]、あるいは夏目漱石『こころ』(岩波書店)[v]。同じ1914年(大正3年)に刊行された二冊の本は、旧制高校の学生たちを中心に必読書として売れたらしい。どちらもエリート階層向けの内容に思えるが、それらの本が売れるだけの読書人口が学生たちのあいだで増えていたのである。
当時、出版界はベストセラーを生むに足る制度を整える最中だった。一方で読者側もまた図書館の充実、書店の増加、そして高等教育機関の拡大によって、読書人口そのものが増えていた。まさに読書の拡大期――それが大正時代だったのだ。

[i] 永嶺重敏『“読書国民”の誕生―明治30年代の活字メディアと読書文化』(日本エディタースクール出版部、2004年)
[ii] 小田光雄『書店の近代―本が輝いていた時代』(平凡社、2003年)
[iii] 澤村修治 『ベストセラー全史【近代篇】』(筑摩書房、2019年)
[iv] 竹内洋『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』(中央公論新社、2003年)
[v] 石原千秋『漱石と三人の読者』(講談社、2004年)

●日露戦争後の社会不安


そんな大正時代の出版界が右肩上がりだったニュースだけ聞くと、さぞかし華やかな出版事情だったのだろう、と想像してしまう。しかし大正時代のベストセラーを眺めると、なんだか、かなり内省的――というか、はっきり言ってしまえば「暗い」雰囲気であることに驚く。
瀬沼茂樹[i]が「大正の三大ベストセラー」として挙げるのは、以下の三冊だ。
 
・『出家とその弟子』(倉田百三、岩波書店、1916年)
・『地上』(島田清次郎、新潮社、1919年)。
・『死線を越えて』(賀川豊彦、改造社、1920年)
 
親鸞を主人公とする長編戯曲『出家とその弟子』は、初版800部から始まったにも関わらず、最終的に100刷以上の重版、14万部以上売れるベストセラーに成長。20歳の青年・島田清次郎の自伝的小説『地上』は50万部超。そしてキリスト教の伝道師の自伝的小説『死線を越えて』は300刷以上、続篇を含め60万部を売り切り、さらに世界中で翻訳されることになった。
なんとも錚々たる部数。数字だけ見るとやたらめったら華やかである。が、これだけ売り切った書籍たちのテーマが、揃いも揃って、生活の貧しさや社会不安への内省なのだ。親鸞とキリスト教という宗教をテーマにした作品や、貧乏な少年による成長物語、と聞くと、現代だったら「なんか暗くて売れなそう」と感じてしまうのではないだろうか。しかしこれらの暗い本が何十万部も売れるベストセラーになるほど、大正時代の人々は社会不安を抱えていたらしい。
この連載を書いている2023年、令和になってからもコロナ禍やウクライナ戦争、増税などによって社会不安を抱えている人は少なくないだろうが、実は大正時代も負けず劣らず社会不安の時代だったのだ。
当時の日本は、大きな行き詰まり感と社会不安に覆われていた。日露戦争によって巨額の外債を抱えた政府による増税、そして戦後恐慌による不景気が社会を襲う。1905年の日比谷焼き打ち事件や1918年の米騒動といった、都市民衆騒擾も起こった。ちなみにこれらの暴動は、職人や工場労働者などの若い男性によって起こされた。[ii]暴動が絶えないくらい、若者のストレスは極致に達していたのだろう。
彼らの憂鬱を反映するかのように、書籍のベストセラーは、スピリチュアル(宗教)や内省的・哲学的読書に傾いていった。明治時代初期にあったような、ポジティブな立身出世を並べ立てるビジネス自己啓発書とはもう違う。内省的で社会問題を直視するベストセラー傾向が生み出されていた。
 

[i] 瀬沼茂樹『本の百年史―ベスト・セラーの今昔』(出版ニュース社、1965年)
[ii] 松沢裕作『日本近代社会史社会集団と市場から読み解く 1868-1914』(有斐閣、2022)


●大正時代のハイブリッド宗教ブーム

明治後期のベストセラーといえば、キリスト教の教えを説いた内村鑑三や、理想主義的な世界を描いた徳富蘆花といった、ある種理想主義的な本が続いた。[i]それは「修養」の精神を説く新渡戸稲造の書籍からも分かる通り、きっとこれから自己も社会も改良し得るだろう、というポジティブな希望を内包したものだった。
一方で大正期のベストセラーは、自己の改良よりも自己の苦しみに目を向ける。たとえば『出家とその弟子』は親鸞と、その弟子、息子の三人が主人公の戯曲。だが読んでみると、なぜかキリスト教の教えが多々登場するのだ。あらすじも「お坊さんなのに女性と恋愛し、その罪悪感に苛まれるが、しかし祈りによってすべてが解決する」という、キリスト教と仏教が混合する、宗教書としてはよく分からない一冊となっている。おそらく、特定の宗教の教えを伝えることよりも、自分の苦しみや罪悪感を何かによって癒す、という行為にポイントがあるのだろう。実際この本は大正時代の若者に共感され、当時の若者のバイブルになる。
なんと『出家とその弟子』のベストセラーは、その後「親鸞ブーム」を生み出すにまで至る。たとえば石丸梧平による『人間親鸞』(蔵経書院、1922年)、『受難の親鸞』(小西書店、1922年)は大正時代に登場したベストセラー。どちらも親鸞の小説だ。ちなみに『人間親鸞』は東京朝日新聞に連載されていたことからも「親鸞が出てくる小説ならたくさんの人に読まれる!」と思われていたことがよく分かる。
宗教書そのものも人気になっていた。たとえば宗教的実践と修養論を掛け合わせた『懺悔の生活』(西田天香、春秋社、1921年)などがある。しかしこれもまた特定の宗教だけを教えるというよりも、当時流行していた「修養」の考え方も一緒に伝えている。『出家とその弟子』といい『懺悔の生活』といい、結局は自分の悩みをスピリチュアル的行為によって解決する方向性が流行していたのではないか、と想像してしまう。
大正時代のベストセラーのなかで宗教書は一大ジャンルとして存在していた。だがベストセラーの内容を見る限り、キリスト教や仏教や特定の思想が流行したというよりも、宗教を通して自分の悩みや苦しみに焦点を当てる本が流行していた、と言えるだろう。それだけ社会不安が大きかったということだが。

[i] 澤村修治 『ベストセラー全史【近代篇】』(筑摩書房、2019年)

●『貧乏物語』と社会主義

大正時代といえば、「大正デモクラシー」の言葉を連想する人も多いのではないだろうか。日露戦争後から満州事変前夜までの時期に、政党政治が実現し、社会運動が展開されていた時期のことである。[i]ロシアで革命が起こり、日本のインテリ層が社会問題や社会主義に関心を寄せるのがブームになっていたのだ。その流れは、書籍のベストセラーにも表れている。
たとえば先ほど挙げた大正時代ベストセラーベスト3に入る『死線を越えて』。本書はキリスト教的社会主義者であった作者の自伝的小説だ。
『死線を越えて』は、改造社から刊行された。この出版社はそもそも、社会主義や労働運動についての論考を載せ、売り上げを伸ばした雑誌『改造』を刊行していた会社なのだ。しかしそんな内容を載せていたものだから、『改造』は発禁処分を受けることもあり、そのたび改造社は危機に陥った。
そんな改造社を救ったのが、賀川豊彦の『死線を越えて』のベストセラー化だった。『改造』を創刊した山本実彦は「日本の社会運動の啓蒙期に当りまして、社会主義及び労働運動に関する刊行物が、ほとんど幾ら刷っても売切れるような時代でありました」と説明する。[ii]この発言を「大正デモクラシーの流れに乗れば、ベストセラーが生み出せる時代だった」……と解釈するのは言い過ぎだろうか。
しかし実際にその流れに乗った本のひとつが、経済学者の河上肇による『貧乏物語』(弘文堂、1917年)だった。『大阪朝日新聞』に連載された経済学の評論だが「大正デモクラシーを牽引した本」[iii]として今なお名高い、大正時代のベストセラーのひとつである。富裕層と貧困層の格差をなくすべきだと論じる本書は、学生のみならず、公務員や知識人、実業家などのインテリ層に広まった。[iv]また翻訳書の『マルクス資本論解説』(カウツキー著、高畠素之訳、売文社、1919年)の売れ行きも好調だった。
当時、「社会主義の啓蒙書」がベストセラーの一大ジャンルだったことはたしかだろう。これについて澤村修治(2019)[v]は、先ほど挙げた宗教書が売れた理由も、社会主義の本が売れた理由も、同じ背景があったと指摘する。

大正期は社会不安や、表層的な繁栄の背後にへばりついた「没落」の予感が、人びとをして宗教的文学や人生修養的著作へ向かわせたが、一方で、オルタナティヴへの関心へと向かわせており――社会主義への引力が本格的に生じたのだ――、事情は同根からだといえる。

(澤村修治 『ベストセラー全史【近代篇】』)


インテリ層の数も増え、読書人口も増える最中、社会不安は増大していた。増税や不景気による貧困層の数も増えた大正時代。ベストセラーには、その不安を救うための宗教の書籍や社会主義の書籍が入っていった――そう解釈することができるだろう。

「大正デモクラシー」というと明るい言葉に思える。しかしその実、社会の格差の広がりが発見され、社会不安が広がった時代だった。不安や苦悩ゆえ、縋るように宗教や哲学に手を伸ばす人はたしかに多かったのだろう。



[i] 成田龍一『大正デモクラシー―シリーズ日本近現代史〈4〉大正デモクラシー』(岩波書店、2007年)
[ii] 山本実彦『出版人の遺文 改造社山本実彦』(栗田書店、1968年)
[iii] 『ベストセラー全史【近代篇】』
[iv] 杉原四郎「『貧乏物語』の想源」(『立命館経済学』44(3)、立命館大学経済学会、1995年)
[v] 澤村修治 『ベストセラー全史【近代篇】』(筑摩書房、2019年)

2.大正時代、辛いサラリーマンの誕生

●「サラリーマン」の登場

さて突然だが、あなたは『痴人の愛』を読んだことがあるだろうか?

谷崎潤一郎が大正14年(1925年)に刊行した小説だ。15歳の少女ナオミを自分好みの女性に育て上げようとする男性の物語である。この大正最後の年に世に出た小説の主人公は、実は「サラリーマン」であることをご存知だろうか? 

『痴人の愛』の冒頭部は、主人公がナオミをカフェで見初める場面、そして主人公・河合譲治の自己紹介から始まる。

私は当時月給百五十円を貰っている、或る電気会社の技師でした。私の生れは栃木県の宇都宮在で、国の中学校を卒業すると東京へ来て蔵前の高等工業へ這入り、そこを出てから間もなく技師になったのです。そして日曜を除く外は、毎日芝口の下宿屋から大井町の会社へ通っていました。

一人で下宿住居をしていて、百五十円の月給を貰っていたのですから、私の生活は可成り楽でした。それに私は、総領息子ではありましたけれども、郷里の方の親やきょうだいへ仕送りをする義務はありませんでした。と云うのは、実家は相当に大きく農業を営んでいて、もう父親は居ませんでしたが、年老いた母親と、忠実な叔父夫婦とが、万事を切り盛りしていてくれたので、私は全く自由な境涯にあったのです。が、さればと云って道楽をするのでもありませんでした。先ず模範的なサラリー・マン、―――質素で、真面目で、あんまり曲がなさ過ぎるほど凡庸で、何の不平も不満もなく日々の仕事を勤めている、―――当時の私は大方そんな風だったでしょう。

(『痴人の愛』)

まさに大正時代というのは、河合譲治のような「サラリーマン」が誕生した時代だった。
自分の生まれた土地や階級から解放された青年たちが、都会の企業で働くことを選択し始める時代。サラリーマンという名の、労働者でもなく、富裕層でもない、新中間層が誕生したのだ。
昨今「サラリーマン」という言葉を私たちは普通に使っているが、実はその言葉が日本に浸透したのは大正後期から昭和初期にかけてのことだった。[i]「俸給生活者」「知識階級」「中流階級」「新中間階級」と呼ばれた彼らが「サラリーマン」として世間に広がってゆくのが、ちょうど大正後期のことだったのである。
その背景にはいくつかの時代変遷が存在する。まず明治時代、高等教育機関の卒業生――「知識階級」の青年たちが、民営の企業に勤め始めた。そこには日清・日露戦争後の株式会社設立ラッシュの企業側の事情があった。[ii]「近代的な経営ができる人間がいい」[iii]「官尊民卑なんて風潮をなくすために、品性ある人間に入ってきてほしい」[iv]という企業の声が、彼らを採用させるに至ったのだ。
もはや「雇うなら士族階級がいい!」なんてわがままは言ってられない。教育を受けたエリートを企業が必要としたのである。身分よりも能力が重視された時代への変換点が起こったタイミングだった。ちなみに年功賃金制度や新卒一括採用といった、日本のサラリーマン雇用慣習も、時を同じくして定着していった。[v]


[i] 鈴木貴宇『〈サラリーマン〉の文化史 あるいは「家族」と「安定」の近現代史』(青弓社、2022年)
[ii] 鈴木貴宇『〈サラリーマン〉の文化史 あるいは「家族」と「安定」の近現代史』(青弓社、2022年)
[iii] 鈴木(2022)は『日本のサラリーマン』(松成義衛・田沼肇・泉谷甫・野田正穂、青木書店、1957年)を引用し、この意見を「従来の解釈」としている。
[iv] 竹内洋『立身出世主義―近代日本のロマンと欲望』(日本放送出版協会、1997年)
[v] 菅山真次『「就社」社会の誕生――ホワイトカラーからブルーカラーへ』(名古屋大学出版会、2011年)

●労働が辛いサラリーマン像、誕生

しかし大正時代に入り、前述した日露戦争後の物価高や不景気が日本を襲う。
せっかく学歴をつけた若者たちは、その学歴に反して、下級職員――当時は「腰弁」と呼ばれた。なぜなら毎日弁当を持って出勤する安月給取りのことを意味するからだ――にならざるを得なかった。[i]その給料は思いのほか安く、想像していたようなエリート層にはなれなかった。彼らを待っていたのは、長時間労働や解雇の危機、そして思うような消費もままならない物価高だった。
鹿島あゆこは、論文「『時事漫画』にみる「サラリーマン」の誕生」(2018)にて、サラリーマンを戯画化した大正時代の漫画を分析した。[ii]その結果、大正時代、サラリーマンという言葉に「社会状況や雇用主によって生活基盤を左右されやすい被雇用者」であるというイメージがついたことを指摘する。労働者とは違う自分を誇示するために、見栄のために食費を削ってまで、服飾費にお金をかけるサラリーマンたち。しかしその服飾費や消費にかける金額もまた、物価高に苦しめられてしまう人々。
つまり、サラリーマン=物価高騰や失業に苦しむ人々、という図式が社会に定着していった。上司にはぺこぺことおもねり、自分の見栄えを気にしてまともな洋服を買い、休みは減らされながらもそれでも働き続け、しかし常に解雇の恐怖と隣り合わせ――。現代にも通じる「労働が辛いサラリーマン像」ができあがったのは、実は大正時代だったのだ。
実際、鹿島(2018)の紹介する北沢楽天による時事漫画を見ると、現代と変わらないサラリーマンの悲哀が描かれていることに驚いてしまう。たとえば1922年7月の『時事新聞』に掲載された「能率試験」というタイトルの漫画。能率がよくなければ勤務時間延長の針山、あるいは暑中休暇全廃の窯、失業の谷に投げ込まれていく労働者や会社員たち……。涙なしには見られない。休日返上、勤務時間の延長、といったキーワードは100年経っても変わっていない。「労働に苦しむサラリーマン像」が大正時代にすでに描かれていた。
「立身出世」を目指した明治の若者たちの行く末がこんなところにあったなんて、いったい当時の誰が思っただろう。そりゃ、どの本も暗い内容であるのもさもありなん、である。こんな状況じゃ、スピリチュアル小説も貧困層の小説も流行るよな……と妙に納得がいってしまう。

[i] 『〈サラリーマン〉の文化史 あるいは「家族」と「安定」の近現代史』
[ii] 鹿島あゆこ「『時事漫画』にみる「サラリーマン」の誕生」(「フォーラム社会学」17巻、2018 年)


●疲れたサラリーマン諸君へ、『痴人の愛』

そのようなサラリーマン像を踏まえると、大正末期に出版された『痴人の愛』がヒットした理由もよく分かってくる。
『痴人の愛』は、元はといえば大阪朝日新聞の連載小説である。当時の新聞の主なターゲットは、新中間層、つまりは毎日通勤するサラリーマンだった。[i]だとすれば、「田舎から出てきた真面目なサラリーマンが、カフェで働く美少女を引き取る」というあらすじは、まさに谷崎潤一郎がサラリーマンに向けて書いた妄想物語そのものだったのではないだろうか。
妄想物語というとやや強引な言い方に聞こえるかもしれないが、「描写と裏切り : 挿絵から読む『痴人の愛』」(2014年)で『痴人の愛』の挿絵について研究した林恵美子は、「読者諸君」と語り手が繰り返し読者を意識するように呼び掛けていること、さらに挿絵は小説よりも譲治を「イケてるサラリーマン」として(おそらくわざと)描写していることを指摘する。[ii]
面白いのが、挿絵に描かれた譲治は、決して田舎出身の冴えない男ではないところ。挿絵の譲治は、タキシードに身を包み、髪はオールバックで、蝶ネクタイが似合う――小説から想起される姿からは、少し、いやかなりかけ離れた、理想版・サラリーマンなのだ。笑ってしまうほど、格好をつけている譲治がそこには登場する。
さらに注目すべき点が、谷崎が「譲治とナオミが出会った時期」として設定したのは1917年。小説連載当時から8年前のことだった。考えてみてほしい。まさに、第一次世界大戦後の好景気の時代を、谷崎は舞台にしているのだ。
谷崎の読者サービス、すごい……と感心してしまうのは私だけだろうか。『痴人の愛』の冒頭をひとことで言ってしまえば、「田舎出身の真面目なサラリーマン(※しかし絵に描かれた姿はかっこいい)が、まだ好景気だった時代に、カフェで美少女と出会う」話だ。――不景気に疲れたサラリーマンが朝刊で読む小説として、これほど癒されるものが他にあるだろうか。サラリーマンと言う名の疲れた新中間層が読む新聞に『痴人の愛』が連載されていたのは、決して偶然ではない。
ちなみに、『痴人の愛』はこんな書き出しで始まっている。

私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。それは私自身に取って忘れがたない貴い記録であると同時に、恐らくは読者諸君に取っても、きっと何かの参考資料となるに違いない。

(『痴人の愛』)

読者諸君にとっての参考資料に……なるかあ! と、私だったら新聞をぶん投げたくなる書き出しである。しかしこの書き出しもまた、全国のサラリーマンに向けたものだとしたら、これ以上ない読者サービスではないか。つまり「読者諸君の参考資料になる」とは、「こんなことも、読者諸君の身に起こり得るかもよ!」と言っているに等しい。谷崎のサービス精神がふんだんに発揮されている書き出しである。

ちなみに小説などほとんど読まない譲治は、会社を辞めたら、「暇な時には読書する」ようになった、という描写がある。……結局、お前も会社を辞めたら本を読むようになったのか! と今と変わらない景色にがっくり来る。

が、めったに小説を読まない譲治ですら、夏目漱石の『草枕』は読んだことがあったらしい。

私は電気の技師であって、文学だとか芸術だとか云いうものには縁の薄い方でしたから、小説などを手にすることはめったになかったのですけれども、その時思い出したのは嘗て読んだことのある夏目漱石の「草枕」です。そうです、たしかあの中に、「ヴェニスは沈みつつ、ヴェニスは沈みつつ」と云うところがあったと思いますが、ナオミと二人で船に揺られつつ、沖の方から夕靄の帳を透して陸の灯影を眺めると、不思議にあの文句が胸に浮んで来て、何だかこう、このまま彼女と果てしも知らぬ遠い世界へ押し流されて行きたいような、涙ぐましい、うッとりと酔った心地になるのでした。

(『痴人の愛』)

田舎出身のサラリーマンでありながら、『草枕』くらいは読んだことのあるインテリ、譲治。彼はまさに、大正時代の新中間層の憧れを代表するような主人公だった、と言えるのではないだろうか。
ちなみに『痴人の愛』の掲載媒体は、途中で変更される。大阪朝日新聞では、ナオミの過激な性的描写について、良くない顔をされるようになったらしい。検閲当局から注意されたことなどをきっかけに、結局、連載は中断に至ってしまう。だが『痴人の愛』に魅せられた若い男女の間で「ナオミズム」という言葉が流行し、ナオミはとくに若い女性の憧れの対象となる――結果として新聞ではなく『女性』という雑誌に掲載誌を移し、連載は再開されるのだった。
最初は中年サラリーマン向けの恋愛を描いていたにもかかわらず、結果的に女性の憧れとなっていった『痴人の愛』。それは谷崎が読者サービスから自分の小説世界へどんどん入り込んでいった結果であるかもしれないのだった。


[i] 山本武利『近代日本の新聞読者層』(法政大学出版局、1981年)
[ii] 林恵美子「描写と裏切り : 挿絵から読む『痴人の愛』」(「大妻国文」45巻、2014年)

3.教養の誕生と修養との分離

●田舎の独学ブーム飛行機
 

さて、カメラのフォーカスを、都会のサラリーマンから、田舎の労働者階級に移そう。
実は明治中後期、働いて学資を得る苦学や、通信教育による独学がブームになっていた。[i]貧しい家庭で育った彼らは「なんとか自分で勉強して、都会に行って出世するぞ」というモチベーションで勉強し、立身出世を夢見ていたのである。しかし彼らの多くは、学費という壁に阻まれた。[ii]

下に引用する石川啄木の詩は、まさに1911年、明治から大正に移ろうとする最中に書かれたものである。

飛行機
 
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
 
給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
ひとりせつせとリイダアの獨學をする眼の疲れ……
 
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
 
(『飛行機』 『日本近代文学大系23 石川啄木集』解説:岩城之徳、注釈:今井泰子、角川書店・昭和44年12月10日初版発行、平成元年11月10日6版発行)

「リイダアの獨學」とは、英語の勉強を独学でおこなおうとしている姿を指している。その目の疲れと、高く飛ぶ飛行機。どれだけ勉強しても、おそらく少年は空高く飛ぶ飛行機になることはできない。高く飛んで行こうとする日本全体の国の勢いの一方で、貧困にあえぐ若者たちは絶えることはなかった。明治末期の労働者階級の読書の在り方を端的に示した詩である。
そんな彼らを発起する思想が、前回の連載でも見た「修養」の概念だった。

[i] 『日本近代社会史』
[ii] 竹内洋『立志・苦学・出世――受験生の社会史』(講談社、2015年)

●大衆のための「教養」と新渡戸稲造


『実業之日本』に多く寄稿していた新渡戸稲造は、「修養」をさまざまな階層の人に届けたひとりである。
新渡戸の「修養」とは、人付き合いのコツや貯蓄法、読書法に至るまでさまざまなジャンルに渡る。仕事で嫌だなと思った時に辛抱し、継続し、小さな克己を積み重ねる――つまりは仕事のハウツーを、新渡戸は「修養」と呼んだ。それはエリートだけでなく、大衆が「働きながら意識し取り組むことのできる思想」だった。[i]
その結果、明治44年に刊行された新渡戸稲造の『修養』(実業之日本社)は明治から昭和にかけてロングセラーとなり、なんと148版も重ねるに至る。[ii]さらに大正4年に刊行された『一日一言』(実業之日本社)もベストセラーになる。歴史上の偉人たちの格言を紹介する修養書だ。これは現代の私たちが読むと、「自己啓発っぽい名言が書かれた一日一句カレンダーみたいだな……」と感じてしまうのではないだろうか。


[i] 大澤絢子『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』(NHK出版、2022年)
[ii] 『ベストセラー全史【近代篇】』

●「社員教育」の元祖としての「修養」

大正時代にも「修養」ブームは続いていた。この頃になると、むしろ労働者階級向けの思想として「修養」が説かれるようになった。
たとえば、大正時代の都市部工場労働者による労働者団体・友愛会。これは「修養」のための団体として結成された。修養という思想を用いて、「労働者は自己鍛錬を怠らないことで団結し、社会の一員として認められるようになろう」というスローガンを掲げていたのである。[i]
さらに、農村においても「修養」を掲げる青年団が結成されていた。日露戦争後、地方改良運動――つまりは「財政が破綻している農村をなんとかせよ」とお触れが出たタイミングで、農村では青年団が組織された。[ii]ここでもやはり「自分たちで自己鍛錬し、農村を支えよう」というスローガンとして、修養の概念が用いられた。
都市部においても、農村部においても、労働者の青年たちには「修養」が求められた。それは社会不安のなかで自分を律し、そして個人として国家や社会を支えられるようになることが求められたからだった。
つまり大正時代になると「修養」は、はっきりと労働者の統制を取るため、そして労働者自身が自分の価値を上げるための、自己啓発の思想になっていったのだ。
これはいまでいう「社員教育」の元祖、と言えるかもしれない。実際に「修養」の概念の歴史を研究する大澤絢子は『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』(NHK出版、2022年)で、明治時代から流行した「修養」の系譜を、戦後の企業の社員教育制度に繋がるものと捉えている。[iii]
ちなみに農村で読まれた会誌『真友』には「本を読む人と読まぬ人とは、品性は異って見える」「本を読む人は、一見して、どこかに崇高(けだか)い処があって、品格が美しく見える」(1913年1月号)などと書かれていたらしい。[iv]「読書」によって品格を上げる、という感覚はすでに農村にも浸透していた。しかしそれは決して「教養を身に着けるため」といった、知識を得ることを重視した手段ではなかった。あくまで、「修養」――つまり自己鍛錬の一手段としての「品格」を上げる行為だった。


[i] 成田龍一『大正デモクラシー―シリーズ日本近現代史〈4〉大正デモクラシー』(岩波書店、2007年)
[ii] 『日本社会近代史』
[iii] 大澤絢子『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』(NHK出版、2022年)
[iv] 成田龍一『大正デモクラシー―シリーズ日本近現代史〈4〉大正デモクラシー』(岩波書店、2007年)

●エリート学生の間に広まる「教養主義」

新渡戸の「修養」の思想が大正時代、労働者階級においては社員教育的になっていく一方で、エリート階級においては「教養」の重視に吸収されてゆく。
大澤は、和辻哲郎や阿部次郎、安倍能成といったエリート階級の青年たちが、新渡戸に影響を受けたことで「知識を身に着ける教養を通して人格を磨く」ルートを発見したことを指摘する。[i]「大正期において、彼の薫陶を受け、エリートとしての自己を模索する和辻らのような学生たちによって、教養として身につけるべき知がリストアップされることで教養主義が形づくられ、修養と教養の間の距離は開いていった」と大澤は説明する。
こうして「教養」=エリートが身に着けるもの、「修養」=ノン・エリートが実践するもの、といった図式が大正時代に生まれていった。[ii]
現代の私たちが持っている「教養を身に着けることは自分を向上させる手段である」といううっすらとした感覚は、まさに「修養」から派生した「教養」の概念によるものだった。それは大正時代にエリート学生たちの間で生まれた、教養を身に着けることによって人格が向上する、というひとつの流行思想だったのだ。


[i] 大澤絢子『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』(NHK出版、2022年)
[ii] 筒井清忠『日本型「教養」の運命――歴史社会学的考察』(岩波書店、1995年)

●総合雑誌が担ったもの

大正時代、「教養」は完全に「修養」から分離し、エリート文化として流行する。その際「教養」思想の流行の担い手となったのは、当時誕生し刊行部数を伸ばしていた雑誌だった。そう、本章の冒頭に引用した『中央公論』を代表とする「総合雑誌」と呼ばれる教養系雑誌たちのことである。
竹内洋は大正時代初期から昭和戦前期に至るまでを「総合雑誌の時代」と呼ぶ。[i]

考えてみると、教養主義といわれた学生文化は文学・哲学・歴史関係の古典の読書だけでなく、総合雑誌の購読をつうじて存立していた面が大きい。

教養主義が学生規範文化になった大正時代や昭和戦前期は、『中央公論』『改造』『経済往来』(一九三五年から『日本評論』に誌名変更)などの総合雑誌の時代だった。総合雑誌の知的クオリティは高かった。講座派と労農派の論争なども、しばしばこれらの雑誌に掲載された。

(竹内洋『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』)

総合雑誌には、論文や小説が掲載されていた。先ほど挙げた谷崎潤一郎や、志賀直哉、幸田露伴、そして夏目漱石や芥川龍之介といった、いわゆる「文豪」たちの作品も総合雑誌に掲載されていたのだ。さらにマルクス主義を総合雑誌で知ることもあったという。[i]
当時の旧制高校では『中央公論』や『改造』が必読書であり、その結果としてエリート学生たちの「教養」が生まれたとも言えるだろう。[ii]
そして、この傾向は学生だけに限らない。東京の読書層について研究した永嶺重敏は「モダン都市の〈読書階級〉―大正末・昭和初期東京のサラリーマン読者」(2000年)[iii]で、大正時代の東京駅周辺の書店で『中央公論』が売れていたことに注目する。

読者階級の一員たるサラリーマン層は、新聞・講談雑誌を読む労働者との差異化の必要に迫られた。この要請に応えるべく出現してきたのが、まず『文藝春秋』であった。『文藝春秋』や『中央公論』等の総合雑誌を読む読者としてサラリーマン層は自らを差異化した。

(永嶺重敏「モダン都市の〈読書階級〉」)

当時、労働者階級も少しずつ読書を楽しむようになり、とくに大衆向けの雑誌はたくさん読まれるようになっていった。そのなかで労働者階級と「差をつけたい」新中間層ことサラリーマン層は、「教養」文化の担い手であった総合雑誌を買うようにしていたのではないか、と永嶺は解釈する。

しかし永嶺も当時の読書はすでに「一種の知的ファッション、流行と化し、衒示的消費の要素が強かった」のではないかと指摘するように、彼らのなかでどれほどが買った雑誌を全て読み切っていたのか、そして理解しようとしていたのかは分からない。通勤電車の中で読書する文化も広まっていた大正末期~昭和初期にあって、総合雑誌のサラリーマン読者はどれほどいただろう。

だが重要なのは、都市の階層の高いサラリーマンは、たしかに総合雑誌を手にし、「教養」を買うことを必要としていたということだ。大正時代、教養主義はエリート文化を象徴するひとつの思想だった。それはエリート学生と一部のサラリーマンの間で共有されていた価値観だったのである。

[i] 竹内洋『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』(中央公論新社、2003年)
[ii] 永峯『雑誌のやつ』
[iii] 永峯重敏「モダン都市の〈読書階級〉―大正末・昭和初期東京のサラリーマン読者」(『出版研究』30、2000年)


●「教養」と「労働」の距離


明治の「修養」主義は、大正時代、二つの思想に派生していた。
一方が戦後も続くエリート中心の教養主義へ。一方が戦後、企業の社員教育に継承されるような、労働者中心の修養主義へ。
だとすれば――本章冒頭にて問題提起を掲載した「ビジネスに使える、効率化された教養」の正体は何なのだろう。それは一見、令和にはじめて流行したような、ビジネスパーソンの不安や焦りを反映した現代のトレンドに思える。だが実際のところ、大正以降に分岐したはずの「教養」と「修養」が再合流したものが、その正体なのではないだろうか。
つまり、そもそも明治時代の「修養」は青年に自己研鑽を促す思想だった。それはアメリカの自己啓発思想に基づいて、家のためではなく個人のために自己を磨くべきだとする、新しい立身出世の思想潮流だったのだ。
しかし大正時代、自らを労働者と区別しようとする「読書階級」ことエリート新中間層が登場した。それによって「修養」=労働者としての自己研鑽と、「教養」=(労働の内容には関係なく)エリートとしてのアイデンティティを保つための自己研鑽、その二つの思想に分離した。とくに新中間層の主な担い手であった都市部のサラリーマンは、自らの見栄のために食費を削る人間とみなされており、教養もまたそのようなエリート層としてのアイデンティティを規定する手段のひとつでもあった。一方で「修養」は労働者階級の、労働にも役立つ人材になるための自己研鑽思想として流行したのだった。
つまり私たちが現代で想像するような「教養」のイメージは、大正~昭和時代という日本のエリートサラリーマン層が生まれた時代背景によって生まれたものだった。労働者と新中間層の階層が異なる時代にあってはじめて「修養」と「教養」の差異は意味をなす。だとすれば、労働者階級と新中間層階級の格差があってはじめて、「教養」は「労働」と距離を取ることができるのだ。
そう考えてみると、令和の現代で「教養」が「労働」と近づいている――つまり「ビジネスパーソンのための教養」なんて言葉が流行しているのは、もはや「教養」を売る相手がそこにしかいないからではないだろうか。
これから見てゆく、戦前~戦後を経て、ビジネスマンにとっての「教養」の在り方も変わる。「教養」は常に「修養」つまり「仕事のための自己啓発」との距離を揺れ動かしている。
『痴人の愛』のサラリーマン・譲治も仕事をやめてから小説を読み始めたように。仕事に関係のない教養を身に着ける余裕のあるサラリーマンは、意外とどの時代であっても、少ないのかもしれない。

 第2回
第4回  
なぜ働いていると本が読めなくなるのか

「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではない。しかし、それは現代だけの悩みなのだろうか。書評家・批評家の三宅香帆が、明治時代から現代にかけての労働と読書の歴史を振り返ることで、日本人の読書観を明らかにする。

プロフィール

三宅香帆

みやけ かほ 

作家・書評家。1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了(専門は萬葉集)。著作に『人生を狂わす名著50』(ライツ社)、『文芸オタクの私が教えるバズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『副作用あります!?人生おたすけ処方本』(幻冬舎)、『妄想とツッコミで読む万葉集』(だいわ文庫)、『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』『女の子の謎を解く』(笠間書院)、『それを読むたび思い出す』(青土社)、『(萌えすぎて)絶対忘れない!妄想古文』(河出書房新社)。

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大正時代の読書と労働―「教養」が隔てたサラリーマン階級と労働者階級