――「中古典」とうまく付き合うコツはありますか?
斎藤 「中古典」には「中くらいの古典」だけでなく、じつは「中古で手に入る本」というニュアンスも入っています。
ほら、中古車センターに行くと、「まだ乗れます!」という安い車がゴロゴロとあるじゃないですか。本当のヴィンテージな「名車」はものすごく高価だけれど、「まだ乗れる」くらいの車なら手が届く。そういうのには、車でも本でも掘り出し物が眠っている可能性がある。
新しいものをつねに追いかけて消費していく「焼き畑農業」な読書がある一方で、「古典」をもっと読め、という「読書のススメ」も世の中に溢れている。でも、現実にはその間にある本、つまり忘れられられかけた「中古典」がいちばん多いはず。図書館なんかは特にそうです。
高校や中学の学校図書館にも、誰にも読まれないまま何十年も死蔵されている「中古典」があるはずで、そういう本だって、もっと活用できるはずなんです。
――中古とはセカンドハンドというだけではなくて、古典的名作と新刊の「中間」にある本、ということでもあるんですね。
斎藤 そう。時代が変われば再評価される可能性も秘めています。ただちょっと辛いのは、ある時代までの「中古典」はみんな分厚いのね。しかも字が小さいから、いまの本と比べると、同じページ数なら3倍ぐらいの文字量がある。だから途中で嫌になる(笑)。
当時は軽いエッセイとして受け止められた森村桂の『天国にいちばん近い島』(南太平洋のフランス領ニューカレドニア島への旅行記)だって、私が担当編集者だったら「先生、半分の長さにしません?」と言いたくなるほど長い。
「土人島」などいまでは完全にNGな言葉が使われているのは時代の限界だったとしても、描写がだらだらしてて、つい添削したくなります(笑)。でも当時はこういう書き方がスタンダードだったんですね。
――この本に収められた錚々(そうそう)たる「中古典」と比べると、最近は誰もが名前を知っている本が減ってしまいました。かなりのベストセラーになっても、内容どころか本や作家の存在そのものを知らない人が多くなった気がします。
斎藤 そうなってしまった理由の一つは、「中古典」以前に「古典」の問題かもしれませんよね。
たとえば昔は、「本棚」がつくる教養というものがありました。1970年代から80年代の初めくらいまでは文学全集がものすごく売れて、多くの家庭に知的な「家具」として置かれていた。中産家庭に育った子供は、たとえ中身は読まなくても、背表紙でタイトルと作家の名前くらいは自然に覚えたんだよね。
「読む」以前のそういう本全体の基礎的な情報が世の中からだんだん失われて、よほどの本好き以外は本にアクセスするためのハードルが高くなってしまいました。
プロフィール
文芸評論家。1956年、新潟県生まれ。児童書等の編集者を経て、1994年に文芸評論『妊娠小説』(筑摩書房)でデビュー。2002年『文章読本さん江』(筑摩書房)で第一回小林秀雄賞受賞。他の著書に『紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』(ちくま文庫)、『モダンガール論』(文春文庫)、『学校が教えないほんとうの政治の話』(ちくまプリマ―新書)、『日本の同時代小説』『文庫解説ワンダーランド』(いずれも岩波新書)、『中古典のすすめ』(紀伊國屋書店)、『忖度しません』(筑摩書房)など多数。