戦争、コロナ禍、マイノリティ文化…すべてに“あらがった”スーザン・ソンタグの入門書がなぜ2023年に刊行されたのか?【前編】
プロパガンダ映画はアートになりうるか
波戸岡 私が『スーザン・ソンタグ』で書いたのは、デビューした60年代のソンタグと、70年代以降のソンタグの間に断絶があるということなんです。例えば1960年代にはファシズムをファッションにするのはアリだと言っていたのに1970年代にそれを否定しました。
都甲 レニ・リーフェンシュタールね。ナチのプロパガンダ映画を撮った映画監督。戦後にドイツの映画界、芸術界から追放されたけど、1970年代にアフリカのヌバの写真集で写真家として復活した。
波戸岡 60年代のソンタグはリーフェンシュタールのプロパガンダ映画をナチスと切り離してその様式を評価しました。
ところが70年代になって「ファシズムの魅力」という論考で、リーフェンシュタールを否定するんです。ナチズム、ファシズムの再来を招くからダメだと。このあたりから、ソンタグが変わるんです。端的に言うと、「不真面目に真面目」から「真面目に真面目」といった感じになってしまう。こうした変化を、私たちはどう考えればいいのか。
都甲 波戸岡さんがこの本の終章で書いていますよね。「自己矛盾を前提としたアフォリズムを書き連ねることで他者を救おうとするソンタグのあらがい」って。その時々に必要なことを言っていく。たとえそれが矛盾していても。そういうまとめをしていましたね。
たぶん、1960年代よりも前の時代は真面目に「ホロコーストはダメ」とか「ナチスはダメ」という雰囲気があって、硬直した政治的な言葉にアートが飲み込まれてしまうようなことがあったんでしょう。それで60年代になって、ソンタグが、政治的に説明できないのがアートなんだ、と言わなければと考えた。でも、その後が難しい。ソンタグは天下を取ってしまうわけだから。
波戸岡 そうですね、読者からすれば「権威」になってしまった。
都甲 天下を取ってしまって――本人は全然そんなこと思ってないと思うけど――みんながソンタグに乗っかってきてしまった。そうなったら、もうちょっと真面目にやらないと、と言いたくなりますよね。
でも、読者からすれば、あんなにふざけろって言っていた人が、今度は真面目にならないといけないよねって言うわけだから、ついていけない人もいるかもしれないですね。
波戸岡 そうですね。ポップを代弁しないでキャンプを代弁したってところも、ソンタグは意識的にズラしてるんだと思うんですよ。
都甲 ポップとキャンプの違いは?
波戸岡 ポップはアンディ・ウォーホルに代表される消費文化を題材としたアート的なもの。キャンプは消費文化、資本主義の流れに乗らない、もっと底流にあるものですね。
都甲 キャンプは資本主義の流れに乗らないともいえるし、乗れないともいえる。
波戸岡 そうです。メインカルチャーになってしまったポップと、サブカルチャーのキャンプですね。だから、みうらじゅんが出てくる。
都甲 ウォーホル自身は割とキャンプな感じじゃない? 梱包用の紐みたいので作ったかつらをかぶっているんだよね(笑)。それで、パーティに行くと、イエスとかノーしか言わない。後は黙ってる。
波戸岡 めんどくさい人だ(笑)。
都甲 ほとんどしゃべらないから、実はすごいんじゃないかみたいになって、どんどん偉くなった。ウォーホルの日記もめちゃくちゃ変だし、ウォーホルが作ったホラー映画も本当にくだらない。一時期ハマって見てたけど。でも、ポップは美術館に入ったもんね。結局、ファインアートになった。
波戸岡 そうですね。ウォーホルが生きている間にファインアートになった。
プロフィール
はとおか けいた
1977年、神奈川県生まれ。専門はアメリカ文学・文化。博士(文学)〈慶應義塾大学〉。現在、明治大学教授。著書にThomas Pynchon’s Animal Tales: Fables for Ecocriticism(Lexington Books)、『映画ノベライゼーションの世界』(小鳥遊書房)、『ラノベのなかの現代日本』(講談社現代新書)など。訳書にスーザン・ソンタグ『ラディカルな意志のスタイルズ[完全版]』(管啓次郎との共訳、河出書房新社)など。
とこう こうじ
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『大人のための文学「再」入門』(立東舎)など、訳書にトニ・モリスン『暗闇に戯れて 白さと文学的想像力』(岩波文庫)など。