さらに原発に近い町村に行ってみよう。
富岡町は、福島第一原発が立地する大熊町の南隣。原発から約10キロ前後である。聖火ランナーの出発点はJR常磐線の「富岡駅」である。ここには何度も取材に来たことがある。
2011年3月11日、13メートルを超える津波が上陸したとき、富岡駅も駅前商店街もその直撃を受けた。海岸から駅までは500メートルしかない。津波は線路を越えて駅舎を押し流し、線路の反対側にある駅前の商店街や住宅街を押しつぶした。その後、片付けをする暇もなく、富岡町民は翌日強制避難になり、隣の川内村から郡山市へと転々とし、最後は全国に散った。今も町の面積の約4分の1は立入禁止のまま、町民は帰還できない。9年以上無人のまま荒廃した町が広がっている。2017年4月の強制避難解除以来3年以上が経つが、3・11当時の町人口1万5960人のうち、帰還した住民はわずか5%、791人にすぎない。つまり住民の95%がいなくなってしまったということだ。
富岡駅前は、被災から3年以上、そのまま放置された。駅舎は流されたままコンクリートの土台だけが残った。線路には草が生い茂り、津波が運んだ自動車の残骸が線路や駅前に道路にゴロゴロ転がっていた。酒屋、本屋、美容院、中華料理屋といった店舗に津波がなだれ込み、店内に軽トラや郵便ポストがころがっていた。
津波で街が破壊された。片付ける間もなく、原発事故が襲ってきた。住民は避難せざるをえなくなった。津波到来のときのまま、街は時を止めた。そんな富岡駅前は、街そのものが「原発災害の遺構」のようになった。この地をバスや自家用車で見物客が訪れ、写真を撮る姿をよく見かけた。津波で亡くなった犠牲者に花を手向ける祭壇が自然発生的にできあがった。
ところが、富岡駅前にはいま、被災を偲ばせるものは何一つ残っていない。駅そのものが100メートル北に移設された。古びた商店街は一軒残らず解体され、道路もまっすぐに付け替えられた。駅舎内にある土産物屋と食堂以外には、商店そのものがなくなってしまった。2020年春まで残っていたパチンコ屋(店内はパチンコ玉が床に散乱し、地震当日のまま凍りついていた)も解体されて更地にされた。
そんな駅前から、私はまたペダルを踏んだ。ゴールは1キロあまり先の「富岡第一中学」である。
ペダルを漕ぎながら、木造の商店や民家が崩れ、津波が運んだクルマの残骸が草むしていた、かつての街の姿を思い出そうとした。しかし、いくら頭を振り絞っても、目の前の風景は、きれいに整地され、まっすぐになった舗装道路の両側に、新築住宅やマンションが並ぶ姿なのだ。
ここでは、被災の記憶が完全に消去されてしまっている。
ふと気づいた。民家やマンションから生活臭がしない。物干しに洗濯物がぶら下がっているとか、子供が遊んでいるとか、人々が普通に暮らしていればあるはずの風景がない。そもそも、工事関係者(作業服を着ているのですぐにわかる)以外の住民の姿がない。民家には「売家」の看板がデカデカと出ている。マンションの玄関には「入居者募集中」「空室」の札が下がっている。よくみると、プロパンガスのボンベが接続されていない。
新築の駅舎。マンション。戸建住宅。すべてが新しく小綺麗だ。しかし、がらんとして人の気配がしない。街全体がハリウッドの映画セットのようだ。街のあまりの変貌ぶりに頭が混乱した。が、それを除けば、フラットな舗装路を走るのはラクだった。ペダルをサクサク踏んで5分足らず。ゴールの中学前に到着した。
プロフィール
うがや ひろみち
1963年、京都府生まれ。京都大学卒業後、1986年に朝日新聞社に入社。名古屋本社社会部などを経て、1991年から『AERA』編集部に。1992年に米国コロンビア大学に自費留学し、軍事・安全保障論で修士号取得。2003年に退社して、フリーランスの報道記者・写真家として活動。主な著書に、『世界標準の戦争と平和』(扶桑社・2019年)『フェイクニュースの見分け方』(新潮新書・2017年)『福島第一原発メルトダウンまでの50年』(明石書店・2016年)『原発事故 未完の収支報告書フクシマ2046』(ビジネス社・2015年)『スラップ訴訟とは何か』(2015年)『原発難民』(PHP新書・2012年)