福島は世界に復興をアピールする“ショールーム”と化した

五輪聖火リレーコースを走ってみた! 第1回
烏賀陽弘道

東京オリンピック・パラリンピックの延期にともない、昨年は中止された聖火リレーが、今年は3月25日、福島からスタートする。芸能人や有名人の辞退ばかりが話題の聖火リレーだが、実は初日の福島浜通りコースは、福島第一原発周辺自治体を走るということで注目のエリアだ。ということで、昨年夏に実際のコースを取材しレポートした記事(2020年9月23日)を再掲載する。

※今年のコースは昨年のコースから少し変更されている部分があるので、それについては各コースの写真のところで説明する。

 

Covid-19(新型コロナウイルス)のパンデミックで世界中が大混乱に陥った2020年。これにより「東京オリンピック」は2021年に延期されたが、東日本大震災と福島第一原発事故からの“日本の復活”を世界中にアピールする「復興五輪」の目論見を政府はあきらめていない。その“復興”を印象づけるために聖火リレーのスタート地点に指定されたのが福島県だ。だが、福島県は本当に“復興”していると言えるのか? それを検証するために聖火リレーコースを見に行ったところ、衝撃の事実と政府の欺瞞が見えてきた。その実態をジャーナリスト烏賀陽弘道氏が短期連載で明らかにしていく。

 

 福島県内で予定されていた東京オリンピックの聖火リレーコースを、自分の足でたどってみることにした。

 新型コロナウィルスの流行で延期にならなければ、東京オリンピックが2020年7月23日から8月8日まで開かれ、その聖火リレーは3月26日に福島県楢葉町・広野町にまたがるサッカートレーニングセンター「Jヴィレッジ」を起点にスタート、福島県各地を回り、続けて全国の都道府県を回る予定だった。

 全国の都道府県の中で、なぜ福島県が聖火リレーの出発県に選ばれたのか。日本政府と日本オリンピック委員会(JOC)が東京五輪を「復興五輪」と性格付けしているからである。

 これは、2011年3月11日に起きた東日本大震災と福島第一原発事故による被災からの「復興」を指している。その中でも、地震・津波による甚大な被害を受けた岩手・宮城県ではなく、福島第一原発から漏れ出した放射性物質による汚染や強制的な避難(長いところでは7年続いた)を被った福島県を出発県に選んだことで「原発事故被害からの復興」を「復興五輪」の第一義に持ってきていることがわかる。

 私は、福島第一原発事故を発生初日から継続して取材している。原発被災地には、2011年4月に最初に入ってから、もう100回近く訪れた。原発事故関連の著作も6冊出した。今も「フクシマからの報告」という現地レポートをネットで書き続けている(https://note.com/ugaya)。

 そうやって福島県各地の「被災→強制避難→空っぽになった町村→除染→避難解除→住民の帰還→その後」をリアルタイムで見続けている記者の目からすると、「復興」と「オリンピック」がどう結びつくのか、さっぱり理解できない。仮に東京五輪が予定どおり開催され、聖火ランナーが走り、大成功のうちに競技が終了したとしても、メルトダウンした3つの原子炉内部は1ミリも変化しないし、ばらまかれた放射性物質は一粒も減らないからだ。

 それに、2011年3月11日夜に日本政府が発令した「原子力緊急事態宣言」は、本稿を執筆している2020年9月現在も解除されていない。これは「福島第一原発の状態は、2011年3月11日夜から変わらず危険なままである」と政府が言っていることを意味する。

 3つの原子炉の中に溶け落ちたウラン燃料棒の残骸は、崩壊熱を放ち続けている。冷却しないとまた溶けるので、冷却水を循環させて温度を抑え続けなくてはならない。燃料棒の残骸を通過した水は放射線を帯びるので、捨てることができずタンクに貯蔵するしかない(放射性物質を海に捨てると国際海洋法に違反する)。そうした「汚染水」が延々とたまり続けている。

 その原発の周囲、かつて強制避難になった市町村には、どれくらいの住民が戻ってきているのか。「警戒区域」「避難準備区域」と呼ばれた原発から半径20~30キロ圏内にある11市町村の帰還人口を調べてみた。住民は強制的に避難させられ、道路が封鎖されて、人や車両の立ち入りが禁止されたエリアである。

警戒区域、避難準備区域に指定されていた11町村の帰還率。原発に近いところは自治体の存続が危ぶまれるほど人は戻っていない。表は2020年2月現在。一部2019年秋

 20キロライン上ぎりぎり、周辺部の町村では5〜7割が戻ってきている。が、原発に近づくほど帰還率は下がる。原発立地町の双葉町は今なお0%。ほかはどこも数%である。逆にいうと9割前後の住民が避難したまま、いなくなってしまっているのだ。実際、9年前の震災当日のまま放置され、荒廃した無人の街がまだあちこちに広がっている(本文中で詳しく述べる)。

 そんな住民のほとんどいない街に聖火ランナーが走って、どこが復興なのだろう。私にはさっぱりわからなかった。

 聖火ランナーが走る。沿道には旗を振る人々が集まる。それをテレビが華々しく世界中に放送する。動画がネットで拡散する。さぞかし晴れがましい映像にちがいない。

 しかし、実際に現地に立ってみてわかった。

 聖火ランナーが走る地区は、原発被災地のほんの一部でしかない。後述するように、短いところでは数百メートルである。リレー予定地はどこも、国が地元自治体予算の数倍もの巨額の資金を投入して新築した役場や住宅団地、ハイテク工場だった。聖火ランナーは、その新築の場所だけを、ほんの数分走る。

 しかし、その映像の外側には、9割の住民が消えてしまった、空洞になった街が広がっているのだ。商店街は野生化した雑草や灌木に埋もれ、民家は傾き、天井が抜け、田畑だった場所は黒いフレコンバッグの貯蔵所に変わり果てている。

 そちらのほうが面積ははるかに大きいのに、聖火ランナーは、そんな場所を走ることはない。よってテレビに映ることもない。

 人がいなくなった原発事故被災地に、国が巨額の予算を投入して作った新しい役場や住宅団地。それはまるでマスコミ向けの撮影セットのように見えた。「どうです。原発事故から復興したでしょう」という印象だけを広めるための「復興のショールーム」。私の目にはそんなふうに映った。

 聖火ランナーという華やかな催しに集まったマスコミは、荒廃したままの街に注意を向けることはないだろう。私はそれを現場で目撃して知っている。

 JR常磐線が再開する数日前のことだ。国は「帰還困難区域を初めて解除する」と広報して、富岡町にある封鎖地区のゲートを開けるセレモニーをマスコミに公開した。早朝、雨ふりのなか、50人近いテレビクルーやカメラマンがゲート前に人垣を作っていた。

 ゲートの向こうは、9年間封鎖されたままの街が広がっている。取材したくても、ずっとできなかった。午前6時にゲートが開くと、私はゆっくりと街を歩き、民家や商店をカメラにおさめた。スーパーやカラオケ店、美容院など、街がまるごと雑草に埋もれ、朽ちていた。かつて人々が生活した場所のむごい変貌に、息を呑んだ。

 しかし、一緒にゲートに入った新聞やテレビの取材陣はそんな街にまったく注意を向けなかった。ゲートの1キロほど先に新築されたJR「夜ノ森」駅のピカピカの駅舎をバックに、集団で地元町長にコメントを語らせ、撮影していた。念のため夜のニュース番組を各局見ても、セレモニーとコメントの画像ばかりで、9年間封鎖されて朽ちた街は映らなかった。

2020年3月、夜の森駅開通時のマスコミ取材の様子(撮影/烏賀陽弘道)

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プロフィール

烏賀陽弘道

うがや ひろみち

1963年、京都府生まれ。京都大学卒業後、1986年に朝日新聞社に入社。名古屋本社社会部などを経て、1991年から『AERA』編集部に。1992年に米国コロンビア大学に自費留学し、軍事・安全保障論で修士号取得。2003年に退社して、フリーランスの報道記者・写真家として活動。主な著書に、『世界標準の戦争と平和』(扶桑社・2019年)『フェイクニュースの見分け方』(新潮新書・2017年)『福島第一原発メルトダウンまでの50年』(明石書店・2016年)『原発事故 未完の収支報告書フクシマ2046』(ビジネス社・2015年)『スラップ訴訟とは何か』(2015年)『原発難民』(PHP新書・2012年)     

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