緊張と不安の時代に、「善く死ぬ」とはどういうことか?
好評発売中の『善く死ぬための身体論』は、武道、呼吸、瞑想からヒマラヤでの想像を絶する修行までさまざまなエピソードを通じて、
武道家にして思想家の内田樹氏、
ヨーガの大家、成瀬雅春氏が死について縦横無尽に語り合ったものです。
今回は「善く死ぬために何が必要なのか」についてあらためてお話を深める
延長戦第2ラウンド。
今回は弟子論からお墓、貨幣、お布施、そして理想に死についての話題です。
(構成=豊島裕三子 撮影=中谷航太郎)
後編 善く死ぬためには、よく生きること
弟子上手
――導いてくれるといいますか、模範や先生に当たるような人に出会えないという人が少なくないと聞きます。
内田 よい先生に出会えないというのは運不運の問題じゃないと思うんです。最終的には本人がそれを決めている。僕には先年亡くなった兄がいます。その兄にはとうとう生涯、「先生」と呼ぶ人がいませんでした。
兄は懐の深い、頭のいい男で、性格も優しくて、僕は素直に尊敬していました。でも、兄には友だちがいなかった。彼はどこに行っても誰からも「兄貴」と呼ばれていましたけれど、それは「樹の兄貴」だから(笑)。僕の友だちの中にしか友だちがいなかった。自分で連れて来た友だちを僕に紹介するというようなことがなかった。
兄には友だちも先生もいませんでした。それは彼が師匠や親友というものに設定していたハードルが高かったからだと思います。自分が「先生」と呼べるような人間であれば、これくらいのレベルであってほしい、自分が「友だち」と呼べるような人間であれば、これぐらいの器量の人間であってほしい……という条件をつけていて、誰もその条件をクリアーすることができなかった。
ある時兄からしみじみと「樹はほんとうに“弟子上手”だよ」と言われました。「お前は先生をみつけるのがほんとうにうまい。オレからみたら、それほどでもないと思える人でも、すぐに『先生、先生』と慕っていって、結果的にはその先生からいろいろなものを学んで、人生を豊かにしているんだから」と言われました。そんなふうに考えたこともなかったけれど、言われてみて、なるほどそうかと思いました。
質問にあった「先生という人に、なかなか出会えない」ことについてですけど、僕はそれは話が逆じゃないかと思うんです。理想の先生がどこかにいて、それを探し続けて、場合によってはついに生涯出会えませんでした……というのはなんかものを習う上できわめて非効率な気がするんです。「人間到る処青山あり」ですよ。そこの角を曲がったら師匠がいたって(笑)。いや、本気でそう思います。できるだけ多くの人を先生と呼んで、学んだほうがいい。
「蒟蒻問答」という落語がありますね。こんにゃく屋の六兵衛さんという人が坊主のふりをして、そこに旅の雲水がやってきて禅問答をするという話です。雲水の方は次々と難度の高い質問をするんですけれど、六兵衛さんはそれを全部こんにゃくに関することだと勘違いして、こんにゃくの話で切り返す。でも、雲水の方は六兵衛さんのこんにゃくについてのコメントをすべて仏教の真理に関するものだと勘違いして、「ありがとうございました。よい勉強をさせていただきました。また修業し直して参ります」と去ってゆく。
これはなかなか深い話だと思うんです。粗忽な雲水がこんにゃく屋の六兵衛さんに騙されたという話のように見えて、実は一番得をしたのは雲水なんですよ。こんにゃくをめぐる問答から、仏教の真理に触れたわけですから。
師弟関係というのは、ある意味でそういう「勘違い」を必然的に伴っていると思うんです。師匠が何の気なしに口にした、どうでもいいような一言を「あれはオレだけに向けて師匠が告げた叡智の教えなのだ」というふうに勘違いして、「ありがとうございます。勉強させて頂きました」と涙ぐむ……というようなことは、師弟関係では日常茶飯事なんです。それでいいんです。師弟関係、習った者勝ちなんです。弟子になった者勝ち。
でも、「弟子になった者勝ち」というふうに考える人は少ないですね。人に教える立場になるためには何か条件が要るように考えている人が多い。
僕が大学の先生をやっていたころに、時々、学生に対して「僕は君たちに『先生』と呼ばれるほどたいした人間じゃありません」というような奇妙な謙遜をする人がいました。同僚に「何とか先生」と呼びかけると、「いや、俺は内田さんの先生じゃないから、先生と呼ぶのは止めてください」なんてね。うるさいこと言うんです(笑)。そんなのこっちの勝手じゃないですか。「先生」って呼びたいから呼んでいるわけで、こっちの都合なんですよ。自分を「先生」と呼べるのは、これこれこういう条件を満たした人間だけだなんていうのは、自分が「先生」と呼ぶのは、これこれこういう条件を満たした人間だけだ、というのの裏返しなんです。こういう人は誰かの先生にもなれないし、自分の先生を持つこともできない。こんにゃく屋の六兵衛さんだって先生になるんですから、「先生」と呼びたかったら、どんどん呼んでください。
僕は誰からでも「内田先生」と呼ばれても全然構いません。「君に教えたことはないから『先生』と呼ばないでほしい」とか、「俺は人から『先生』と呼ばれるほどの器じゃない」とか言う権利が僕にはないと思っていますから。『先生』と呼ぶか呼ばないかは、僕の問題じゃなくて、先方の問題なんです。『先生』と呼びたければ、そう呼んで下さい。誰かを『先生』と呼びたいという気持ちって、ある種の向上心なんですよ。それに水を差すことないですよ。
成瀬 やっぱり、人から何かを吸収しようというのが、人間の基本的な姿勢としてはいいですよね。だから先生であるかどうかは別としても、僕は内田さんからも、いろいろなことを吸収できるし、今日来ていらっしゃる方からも吸収できるし、そういう意味ではみんな先生ですよ。僕にとってね。
内田 そうですよね。
成瀬 利用という言い方は変だけど、周りの人からいろいろなヒントを得て、自分が成長していくということだと思います。
内田 それは大学で教師をやっているときに、ほんとによくわかりました。
プロフィール
内田 樹(うちだ たつる)
1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授。
思想家。著書に『日本辺境論』(新潮新書)、『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)、共著に『一神教と国家』『荒天の武学』(集英社新書)他多数。
成瀬雅春(なるせ まさはる)
ヨーガ行者。ヨーガ指導者。成瀬ヨーガグループ主宰。倍音声明協会会長。
ハタ・ヨーガを中心として独自の修行を続け、指導に携わる。著書に『死なないカラダ、死なない心』(講談社)他多数。