「疎外感」の精神病理 第6回

トラウマと疎外感

和田秀樹

トラウマの歴史

 アメリカをトラウマ先進国のように紹介しましたが、トラウマがアメリカ精神医学の重要テーマになった歴史はそんなに古いものではありません。

 アルバート・ユーレンベルグという学者が「心的外傷」の概念を初めて用いたのは1878年のこととされますが、その後のトラウマの研究は、あまり進みませんでした。

 フロイトのライバルでトラウマやそれによる解離症状(つらいトラウマの記憶から逃げるために別の意識状態になること、あとで詳しく説明します)の研究を行ったジャネという学者の研究は、のちのトラウマ研究者に再評価されることになるのですが、当時はそれほど着目されませんでした。

 フロイトは当初、神経症は親からの性的虐待のようなトラウマ体験から生じると主張していました。しかしある時期から、その病因を実際の性的外傷より、幼児性欲に結びついたファンタジーであると考えるようになり、事実上外傷説を棄却したのです。幼児性欲とは、たとえば口愛期と呼ばれる赤ん坊の時期のおしゃぶりなどが代表的で、母親のオッパイが性対象、赤ん坊の口唇が性感帯となり、オッパイを吸うことで性行為をするようなファンタジーを子供はもつのです。親がセックスを強要したのでなく、子供と親の交流が性行為のように感じられるために、それを思い出すことが心の病の原因になるという理論です。これを心的現実論といいます。

 その後、このフロイト理論が隆盛となり、このため、おそらくは多かったであろう性的虐待が見過ごされてしまうことにもなりました。

 もう一つの重要なトラウマが戦場でのトラウマです。

 これも古くは南北戦争の男性帰還兵や女性被災者の外傷ストレス反応を観察したシラス・ミッチェルの研究にまでさかのぼることができ、着目そのものはかなり古いものです。

 第一次世界大戦においては、かなりの多くの精神科傷病兵が出現し、戦争神経症の研究が進みましたが、当時は「shell shock(砲弾ショック)」「soldier’s heart(兵士の心臓)」と呼ばれ、もっぱら心臓の具合が悪くなるなど身体因子に着目されました。

 しかしながら、軍の上層部が戦争神経症の報道を抑えようとしたり、あるいは、戦争神経症を発病する人間はモラルの劣った人間だとみなされる風潮が当時あったため、この研究はそれほど進みませんでした。

 そんな中で、アメリカの精神分析医のアブラハム・カーディナーは、1941年にその臨床像の記載が現在でも通用するとされる大著『戦争の外傷神経症』を刊行しましたが、その後は、ヒステリーの病因としても、戦争神経症についても、心的外傷の研究はそれほど進みませんでした。

 前述のようにフロイトの唱えた精神分析の理論が隆盛となり、実際の心的外傷などなく、実はファンタジーなのだという考えが広まったことと、冷戦が始まり、再び帰還兵の精神障害を公に論じることが難しくなったことの影響も小さくないでしょう。

 その後は、ホロコーストの生存者の心的外傷の研究などがなされましたが、精神科医全体の心的外傷に関する関心は薄れ、1968年に出されたDSM-Ⅱ(アメリカ精神医学会の精神疾患の診断統計マニュアルの第二版)においても、外傷性のストレス反応は「成人生活における適応障害」の中の下位項目に格下げされることになりました。1952年に発行した新たな診断体系のDSM-Ⅰ(同第一版)には、カーディナーの研究を下地に激症ストレス反応という診断名が設けられたにもかかわらずです。

 ところが、ベトナム戦争では、実際に精神的な後遺症を患う帰還兵が多かった上に、反戦運動が道徳的に正当なものとされ、その後遺症について堂々と語ることが可能となりました。また、フェミニスト運動の盛り上がりに伴って性暴力に対する関心も急速に高まりました。これらの被害者の研究によって、帰還兵の精神的後遺症もレイプの被害者の精神的な後遺症も、本質的には同質のものと考えられるようになったのです。さらに自然災害、誘拐などでも同様の精神障害が認められことも解明され、1980年に刊行されるDSM-Ⅲ(同第3版)において、PTSD(外傷後ストレス障害)の診断名が初めて記載されることになりました。

 かくして、その存在が疑問視されたり、心の弱い人間しかならない、どちらかというとダメ人間の心理とされたトラウマの病理がアメリカ精神医学のメインテーマとなるのです。

 ただ、それは1970年代以降の話で、PTSDも1980年になって公式な病名となった比較的新しいものなのです(それでも日本より15年進んでいることになりますが)。

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「疎外感」の精神病理

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プロフィール

和田秀樹

1960年大阪府生まれ。和田秀樹こころと体のクリニック院長。1985年東京大学医学部卒業後、東京大学医学部付属病院精神神経科助手、米国カール・メニンガー精神医学校国際フェローなどを経て、現職。主な著書に『受験学力』『70歳が老化の分かれ道』『80歳の壁』『70代で死ぬ人、80代でも元気な人』『70歳からの老けない生き方』『40歳から一気に老化する人、しない人』など多数。

 

 

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