「疎外感」の精神病理 第6回

トラウマと疎外感

和田秀樹

複雑性PTSDの心理世界

 たった一回のトラウマ的出来事を体験するだけで、このような疎外感が生じるわけですが、それが繰り返される児童虐待などを何年も経験し続けてきた人たちの心の病理は、もっと悲惨なものがあります。

 女性皇族が自由恋愛をした相手(というよりその親)のさまざまな問題点をマスコミが報じた際に、宮内庁に頼まれた精神科医が、その女性皇族に複雑性PTSDという病名をつけて記者会見を行ったのは記憶に新しいところです。

 その医師は大学の医学部教授や精神科病院の院長も経験していないのに、精神科の国際団体のトップになりましたが、そういう胡散臭い話をのけても、私はこの診断に激しい疑念をもちます。

 アメリカ精神医学会が2013年に発表した診断基準の最新版(DSM―5)に病名として記載しなかった複雑性PTSDを、WHOが最新の診断基準(ICD-11)でこの病名を載せた(通常はICDの病名はDSMに合わせることが多く、これはかなり異例です)のは、児童虐待だけでなく、拷問及び戦争のような長期の対人関係の外傷でもこの症状が起こることが認識されたからで、どちらかというと世界の多くの発展途上国で、児童虐待よりひどい拷問や戦争が起こっていることを意識したからだと考えられます。

 ちなみに、この病名がICD-11で採用されたのは、2018年ですが、診断名として正式に発効するのは、2022年1月1日からです。この精神科医はまだ正式病名になっていないものを記者会見で使ったことになります。

 確かにメディアによる誹謗中傷で心が傷つく人はたくさんいますし、それで自殺する人さえいます。

 しかし、複雑性PTSDは、そのレベルのトラウマで生じるものでなく、児童虐待や戦争や拷問で生じるものですし、この医者がいうように、(マスコミが批判をやめ)「結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる」ようなものではありません。

 ストレスフルな環境から逃れられたら速やかに回復するとしたら、複雑性PTSDではなく、適応障害と診断をつけるのが現在の精神医学での常識となっています。

 いずれにせよ、この記者発表で複雑性PTSDに大きな誤解を与えたのは事実でしょう。

 多くの児童虐待サバイバーの人たちは、親元を離れ、成人して、虐待を受けなくなっても複雑性PTSDという苦しい心の病に苦しみます。

 記載されている症状としては、前述の解離症状のほか、感情調整の障害、自己破壊的および衝動的行動、敵意、社会的引きこもり、他者との関係の障害などがあります。

 このため、まともな社会生活が送れなかったり、家庭を作れなかったり、結婚してもすぐに離婚などという悲惨な生活を送ることは珍しくありません。哀しいことですが、このような症状のために虐待の連鎖も起こりえるのです。

 それ以上に感情のコントロールの悪さや衝動的行動、敵意などの症状のために重大犯罪に走ることさえあります。

 アメリカで児童虐待を見つけたら、すぐに親元から引き離して施設で養育するという一因として、銃社会のアメリカでは、これらの症状が重大犯罪につながるという認識があるからでしょう。

 日本でも池田小学校事件、山口県光市の母子殺人などは、加害者がかなりひどい親の虐待を受けてきたことが明らかになっています。

 安倍元首相を殺した加害者も、親が旧統一教会に入信して以来、長年ネグレクトを受けてきたという背景も十分考えられます。要するに複雑性PTSDであった可能性が強いのです。

 虐待を長年受けるだけでも悲劇的なことなのに、それによる精神症状のために、そのサバイバーの多くが、人間社会に溶け込めず、激しい敵意と疎外感を覚えながら生きていくことになるとすれば、それ以上の悲劇としか言いようがありません。

 凶悪犯罪の加害者を断罪しても、この手の虐待を受けている子供を救い出さないと凶悪犯罪は減らないことも事実なのだということをぜひ認識していただきたいと思います。

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プロフィール

和田秀樹

1960年大阪府生まれ。和田秀樹こころと体のクリニック院長。1985年東京大学医学部卒業後、東京大学医学部付属病院精神神経科助手、米国カール・メニンガー精神医学校国際フェローなどを経て、現職。主な著書に『受験学力』『70歳が老化の分かれ道』『80歳の壁』『70代で死ぬ人、80代でも元気な人』『70歳からの老けない生き方』『40歳から一気に老化する人、しない人』など多数。

 

 

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