カルチャーから見る、韓国社会の素顔 第8回

光州は世界をつなげる

伊東順子

『あなたのための行進曲』

 

 『じゃあ、なにを歌うんだ』という小説は、タイトルが示すように「歌」にまつわる話である。最後のシーンは2010年5月、主人公が再会したヘナと連れ立って入った光州のバーでは、「あの歌をかけてよ」という客と「あの歌聴いてどうするんだ?」というマスターの論争が起こる。小説には「あの歌」のタイトルは書かれていないが、韓国の人ならそれが『あなたのための行進曲』という、ある時から光州民主化運動のシンボルになった歌だということがわかる。 

 

「聴くのが嫌だから。ほんとに聴きたくないから」

「じゃあ何を聴くんだ? 何を歌えばいいんだ?」

 

 これには当時の韓国の政治状況が深く関係している。李明博―朴槿恵という二代にわたる保守政権(2008~2016年)が、光州民主化運動の記念式典で参加者全員によるこの歌の斉唱を取りやめて合唱形式にしたことで、一部に強い反発が起きていた。そのことへの暗喩であることは間違いないのだが、主人公はそこでの感情を遮断する。1985年に光州で生まれた彼女はカリフォルニアや京都ではなく、他ならぬ光州という場所でも、全ての他者と自身を何枚ものカーテンで仕切りながら、一生懸命考えている。

 

 実は私自身も長らくこの歌が歌えなかった。90年代初頭に韓国で暮らし始めた頃は、学生街の酒席でこの歌が飛び出すと、韓国の友人たちと拳を振り上げたりもしたのだが、ある時から「自分などが歌っていいのか」という思いに囚われるようになった。それは「光州について語る」ことについても同様だった。私などが語ってはいけないし、私などが語らなくてもいい。

 でも、今は少しそれが変わった。きっかけの一つは2017年に公開された『タクシー運転手 約束は海を越えて』という映画だった。この映画では翌年に日本でも公開され、予想以上の反響となったという。日本の若い人たちから「初めて光州事件を知った。韓国ってすごいですね」と言われた時、私にもまだ伝えたいことがあることに気づいた。

 その一つがたとえば白竜など在日コリアンの人々のこと、あるいは後述するが高橋悠治、富山妙子といった日本人アーティスや市民たちのことだ。80年代の日本には隣国で起きていることに衝撃を受けて、必死になって行動する人々がいた。『タクシー運転手』を見て、それを思い出した。何よりも重要なことは、その行動が「結果を出していた」ことである。

 パク・ソルメが書いたカリフォルニアのバークレー、京都の四条、そして彼女がもし立ち寄っていたら同じ経験をしたかもしれないドイツのどこかの都市。80年代初頭に「光州」をめぐって世界がつながっていたことを、もう一度ふりかえる必要があると思ったのだ。

 

 

映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017

 

 パク・ソルメの小説『じゃあ、なにを歌うんだ』が発表された2011年から、映画『タクシー運転手』公開された2017年までには6年の歳月がある。その間に韓国では「セウォル号事件」(2014年)があり、また「ろうそく革命」による政権交代があった。

 2017年5月、新しく選ばれた文在寅大統領は、就任直後初めての公式行事として光州を訪れた。5・18民主化運動37周年の記念式典で、彼はとても多くの国民の心に響く感動的な演説をし、保守政権時代の封印を破って「あの歌」を大きな声で歌った。この時の大統領の姿が多くの国民の共感を得たのは、その直後に大統領支持率が8割を超えるまでに跳ね上がったことで明らかだった。

 「私がまさか文在寅氏の話に感動するとは思わなかった」

 保守系の支持層までが泣いた光州からの実況中継。それは「光州での出来事」が国民全体の「痛み」として共有される入り口だったのかもしれない。

 それから3ヶ月後に、映画『タクシー運転手』は公開された。多くの人々はまだ「ろうそく革命」と「光州での文在寅大統領」がもたらした興奮の中にいた。観客動員は累計で1200万人。韓国の人口が5000万人であることを考えれば、ものすごい数の人がこの映画を見たことになる。

 映画は1980年5月の光州を取材し、その悲劇を世界に伝えたドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーターと、彼を光州まで乗せて行ったタクシー運転手キム・マンソプの物語である。主演は『パラサイト』でおなじみのソン・ガンホ。映画は彼がソウル市内でタクシーを運転しているシーンから始まる。趙容弼のヒット曲『タンパルモリ』を鼻歌で歌っているご機嫌な彼が、行く手を学生デモに遮られて怒る中年になる。

 「毎日、毎日、学生デモのせいで道が混む」「親のすねかじりのくせに」「デモをするために大学に行ったのか」

 その時の韓国はといえば、前年秋に朴正熙大統領が暗殺されたことで、民主化への機運が一気に高まっていた。金大中、金泳三といった後の大統領たちも政治活動を再開し、また4月に新学期を迎えた大学では、学生たちはクーデターを起こした全斗煥ら新軍部の退陣を求めてデモを繰り広げていた。「プラハの春」ならぬ「ソウルの春」。

 しかしマンソプにとって切実なのは、そんなことよりも日々の暮らしだった。滞納した家賃の支払いこそが最大のテーマであり、光州に行ったのも往復10万ウォンという破格のタクシー料金につられたからだ。彼は記者を乗せて光州に向かうが、道路は軍によって封鎖されている。光州はこの時すでに孤立状態になっていたのだ。

 映画ではマンソプを通して、当時の一般市民が学生デモや民主化運動をどう思っていたのかを伝えている。ところがそんな平凡な市民が、実際に光州事件に遭遇して変化していく。この変化はマンソプにだけでなく、実は光州にいた市民もまた同じだったのだ。

 

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カルチャーから見る、韓国社会の素顔

「愛の不時着」「梨泰院クラス」「パラサイト」「82年生まれ、キム・ジヨン」など、多くの韓国カルチャーが人気を博している。ドラマ、映画、文学など、様々なカルチャーから見た、韓国のリアルな今を考察する。

プロフィール

伊東順子

ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)等。『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)好評発売中。

 

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