カルチャーから見る、韓国社会の素顔 第8回

光州は世界をつなげる

伊東順子

日本で作られた映画『自由光州』(1981)、音楽家・高橋悠治と画家・富山妙子 

 

 『あなたのための行進曲』は、光州事件後に作られた歌だ。光州で亡くなった名もなき英雄を追悼し、それに続こうという歌は1982年、作家である黄晳暎(ファン・ソギョン)の家で、作曲を担当した大学生などが集まって録音された。

 では1980年5月当時、光州市民はどんな歌を歌っていたのか? 映画『華麗なる休日』では市民が歌うシーンが登場する。そこから聞こえてくるのは馴染みのあるメロディは『ジョニーが凱旋するとき』、ただし歌詞は「ウリドルン チョンイパダ チョッタチョア(我らは正義派だ、いいぞいいそ」という韓国語の替え歌になっている。

 

 『プリパ(根っこ派)』あるいは『チョンイパ(正義派)』と呼ばれたこの替え歌を、私が知ったのは学生だった1980年代初頭、教えてくれたのは現代音楽家で日本を代表するピアニストの高橋悠治だった。すでに白竜のことは書いたが、高橋悠治もまた光州での出来事を知らせるために、「水牛楽団」の仲間たちと日本全国を回っていた。

 「水牛楽団」のステージでは『プリパ』や『その時その人』(朴正煕大統領の暗殺を風刺した替え歌)など、実際に韓国の学生や市民たちがうたっている歌が紹介されるとともに、『しばられた手の祈り』、『倒れたものへの祈祷』など、高橋悠治自身のオリジナル曲も披露された。

 彼はすでに1970年代から韓国の軍事政権により投獄された詩人・金芝河の救援活動などにも積極的に参加していた。金芝河の獄中詩にインスパイアされたピアノ曲『しばられた手の祈り』は、さらにそれ以前から韓国と深いかかわりを持っていた画家・富山妙子のアイディアによる「絵と音楽によるスライド作品」となり、1977年頃から全国的に上映運動が展開されていた。

 そんな時に、光州事件が起きた。

 現地に入った記者たちが持ち出した映像や写真は日本でも連日のニュース報道となり、衝撃を受けた富山妙子はその場で作品制作にとりかかったという。

 「わたしは溢れる涙とともにニュースのシーンを見守る。光州の学生たちがエビのように体をねじ曲げられ、手を縛られ、足蹴にされ、逮捕されてゆく姿が胸に痛い。狂おしい怒りがわたしをかりたてていた。そして六月の半ばから、光州へのレクイエムとしての作品の制作に没頭した」(富山妙子著『アジアを抱く』)

 そうして、わずか3週間で完成させたリトグラフの連作に、高橋悠治もまたものすごいスピードで曲をつけ『倒れたものへの祈祷 1980年光州』というスライド作品が出来上がった。富山妙子はそれをもって日本全国を巡回し、さらに翌1981年5月にはそれを元にした映画『自由光州』(監督 前田勝弘)も公開された。

 

 

「記憶の海へ―富山妙子の世界」

世界をつなげた光州5・18、May,eighteenthの記憶

 

 折しも今年3月から、韓国ソウルでは「記憶の海へ―富山妙子の世界」という大規模な回顧展が開かれている。延世大学校博物館と東京大学東洋文化研究所の共催、コロナ下のオープニング式典は嬉しいことにオンラインでも視聴できた。この企画の発案者であり推進者である真鍋祐子東大教授のリモート中継での挨拶とともに、今年100歳になる画家・富山妙子本人の元気なビデオメッセージも届けられていた。

 来賓の挨拶の中で、特に感銘を受けたのは富山妙子と個人的にも親交の深い韓明淑元総理のスピーチだった。ご自身も軍事政権時代に拷問や投獄の経験がある元総理は、現在のミャンマーにおける事態と過去の光州事件を関連させながら、当時の富山妙子の行動について、次のように述べていた。

 「(インターネットなど様々なメディアがある今のミャンマーと少し違うのは)当時の光州は完全に封鎖され、私たち自身は何も知ることはできなかった。それを富山先生は感知して、すぐに版画作品にとりかかった」

 報道管制下にある韓国の人々に代わって、光州で起きていることを知らせなければ--富山妙子の活動は日本国内にとどまらなかった。1982年には当地の韓国系アーティストらから招待された富山妙子は欧州まで出向き、フランスやドイツなどでも光州事件に関する個展やスライド上映が行われたのである。

 こうして韓国の軍事政権に対する反発は世界中に拡散していった。中でも緊急の課題は、死刑判決を受けた金大中氏(後の大統領)の救出だった。彼は光州事件に関連して「内乱陰謀事件の首謀者」とされたが、それが軍によるでっち上げであることは明白だった。

 「金大中救出運動」は世界に広がり、各国政府やローマ教皇までも動かすこととなった。軍服を脱いで大統領になった全斗煥はその圧力に耐えきれず、1982年1月には死刑を無期懲役に減刑、さらに年末には米国への出国(事実上の追放)を条件に刑の執行が停止された。

 インターネットのなかった時代でありながら、救援運動がトランスナショナルな広がりをみせた。その先頭に立った富山妙子という画家が、40年後の韓国で再照明されることは、本当に意義深いことだと思う。

 大事なことは、この時「金大中救出運動」の中心地となった米国、日本、ドイツなどはいずれも、メディアがいち早く光州の現場に入り、そこで実際に起きている事態が明らかにできた国々だったことである。この時は韓国だけでなく台湾もまだ民主化前、アジアで言論の自由があったのは日本と香港ぐらいだった。欧米メディアの取材拠点も東京に置かれており、日本の役割はとても重要だった。

 さらにもう一つ重要なことは、いずれの国でも救援運動の中心には、その国で暮らす韓国系市民と居住国市民の共同行動があったことだ。たとえば日本でも在日コリアンと日本の市民運動、アーティスト、文学者、宗教者、さらに政治家なども党派を超えた幅広い人々の連帯があり、ハンスト、デモ行進、署名、コンサート、そして国会での活動など、さまざまな形の行動を繰り広げた。

 そうして救出された金大中氏は大統領になった1998年の秋、韓国の大統領としては初めて日本の国会で演説し、自分が生きて活動できる喜びと、そのために努力してくれた日本国民とメディア、日本政府への感謝の言葉を述べた。救出運動に尽力した与野党の国会議員の中には、これを聞いて涙を浮かべた人もいたという。

 日本のメディアと市民運動が世界とつながり、ひとりの政治家の生命を救ったこと。このことはもう少し語られてもいいのではないかと、最近になって思うようになった。日本でも市民運動は結果を出してきたのである。

 富山妙子の「記憶の海」の深さに比べれば、私の記憶などは全くの浅瀬にすぎないが、それでも砂に埋れた記憶を取り出してみたら、そこにはかつて見た富山妙子の作品や、高橋悠治や白竜の音楽が確かに残っていた。

 そういえば『タクシー運転手』でドイツ人記者を演じたトーマス・クレッチマンは、旧東ドイツの出身である。彼もまた分断国家で生まれ、19歳の時にハンガリーやユーゴスラビアを経由して西に亡命した。『戦場のピアニスト』(2002年、ロマン・ポランスキー監督)などを経てドイツを代表する世界的な大俳優となった彼の出演について、当初、現地のエージェントはいくらなんでも無理だろうと諦め気味だったという。ところが、翻訳された台本を読んだ彼はすぐに出演を承諾した。

 光州はまた一人、語り手を得た。光州は世界をつなげる。

 

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カルチャーから見る、韓国社会の素顔

「愛の不時着」「梨泰院クラス」「パラサイト」「82年生まれ、キム・ジヨン」など、多くの韓国カルチャーが人気を博している。ドラマ、映画、文学など、様々なカルチャーから見た、韓国のリアルな今を考察する。

プロフィール

伊東順子

ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)等。『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)好評発売中。

 

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