遺魂伝 第3回 中村敦夫

ラクに生きられる方法はわかっている。でも、できない。そこが私と紋次郎は同じなんですよ

佐々木徹

ハワイ大学で目にした日本人とアメリカ人の決定的な違い

――その安易に周囲と同調しない魂が育まれたのは、いつ頃から?

「私は生まれつき活発でね、自分が納得できないことには、子供の頃からいちいち噛みついていました。小学生の頃には理不尽な校長と戦っていたかな。周りの大人たちからは、なんちゅう子供だと言われていましたよ」

――そりゃまた、早熟な! でも、子供の時分から戦っていると、しんどくないですか。

「ひとりで戦うとね、しんどいこともあります。何か問題が起きたときに自分という主体性を崩さずに主張していくのはなかなか難しいし、心も疲れてくるし、えらく大変なんです。とくに……とくに日本ではね。やはり、ひとりひとりが自分なりの個を掲げ、それぞれに意見を貫くことを是とする文化が成熟していないと、毎日が社会や周囲との戦いになってしまう。そうそう、自由に意見を交わせる文化を強く意識したのは、最初のアメリカ留学のときでした」

――ええっと、1965年に実行したハワイ大学への留学?

「そうです、25歳のときでしたか。当時のアメリカはベトナム戦争に深入りしていて、社会全体が殺伐としていたんですね。世代ごとに対立ができていたり、社会の価値観を巡って大揺れに揺れた時代だったわけです。そんな社会状況のときに留学し、実際にいろんな体験を積み重ねていたある日、授業中に教授と学生がベトナム戦争に関して激しい論争を始めたんです。私はそのとき、この論争が終わったあと、学生がどんなひどい目に遭うかとハラハラしたんですよ」

――通っていた小学校の校長と喧嘩して、なんちゅう子供だと言われた者としては。

「いや、なんちゅう子供で済むならいいけども、もっと陰湿な虐め、例えば日本でいうところの内申書? それに協調性ナシだと評価されたりするんじゃないかとか、他にも、この論争が問題となり、教授たちの間であいつを無視しようとなるかもしれない。せっかく彼が授業中に手を挙げて答えを述べようとしても、教授たちが存在しない者として扱い、発言する機会すら奪ってしまうのではないかと思ったんです」

――日本ではありがちな学校内での虐めですよね。これはでも、学校に限らず、大人の社会、職場でもありそうなことですけども。

「私がそう心配してしまうほど、教授と学生の論争は湯気が立つほどに激しさを増してやり合って。他の学生たちはというと、顔を真っ赤にしながら言い合う2人を黙って見守っていて。だからといって、誰ひとりどうでもいいやという態度を取らずに2人の論争に聞き入っているんですよ。しかも、ただ聞いているだけじゃなく、ひとりひとりが冷静に、かつ興味を示しながら、この論争の論点は何だろうと理解しようとしていた。これが日本だと論点を探すことよりも、どっちが我慢できずに感情的にブチ切れて怒鳴り始めるのだろうと下世話な興味を持ったり」

――どっちが先に殴りかかりそうか、とかね。

「論点なんかどうでもいい感じでね。そういう暴力的なところで、どっちが勝つかみたいな話になっちゃうんですけど、あの2人は違いました。結局、1時間くらいかな、論争を続けていたのは。そこで授業が終了となり、2人の論争も終わったんですが、最後に教授はこう言ったんです。〝どうやら、キミの主張のほうが正しいようだ〟と」

――それは偉い、潔い。

「続けて〝私の間違いを気づかせてくれて、ありがとう〟と言ったんです。そして、教授と学生はガッチリ握手してね。他の学生たちは2人に対して拍手を送っている。私は、ひっくり返るぐらいビックリしました。その拍手を聞きながら、思いましたよ。教授は面目を失わず、むしろ正直であることに学生たちから称賛を受けているんだって。同時に、違うんだとも思いました。アメリカと我が国日本とでは根本的に、生きている人々の立ち位置が違うんだと。日本では家柄、学歴、職歴、肩書などで無意識のうちにお互いの立ち位置が決まってしまう。使う言葉も、普段の仕事においては礼節をわきまえるけども、意見を戦わせるときはやっぱり、例えば重役と平社員では違ってくる。それが至極当然、当たり前だったりするし、忖度の温床になっていく。

 逆にアメリカは、どんな人間であろうと、みな平等の立ち位置。大統領と労働者がしゃべるときでも、お互いフランクに語り合う。それこそたとえ大学教授であろうと、経験浅き学生と論争になっても、己の権力を振りかざすこともなく、必ず同じ立ち位置をキープする。それを守りながら、徹底的に意見を交わし合う。そして、正しい主張のほうが勝つ。これがつまり、本当の民主主義なんだろうと学びましたよね。

 問題は言語にあるんです。日本語は英語などとは異なり、地位、年齢、性別の違いで使い分けする差別言語です。最初から使う武器の強度が違うので、対等な議論ができない仕組みになっている。これは歴史的、文化的問題ですから、なかなか厄介です」

――想像するに、ひとりで戦うしんどさにまみれたのは国会議員の時期だったのではないですか。あの頃、巨大組織(与党)に孤軍奮闘で戦っている中村さんの姿が思い出されます。自分はどうせタレント議員だからと開き直ることもせず、いけしゃーしゃーと歳費だけを貰う議員にも成り下がらず、納得できない政策に対して、ときの政権に届かぬ槍を目いっぱい突き刺そうとしていた。その行動は他の議員からすれば〝何やってんの、バカだな、こいつ〟と滑稽に映ったでしょうが、負けることはわかっていても、それでもなんとか一突き食らえ!というタフな精神は、僕らが受け継いでいかなければいけない熱き反骨の魂だと思っています。

「振り返ってみると、国会議員一人では華々しいことはできなかったね。何回も法案にたったひとり反対票を投じましたけど、当然のことながら政府はびくともしない。よく他の議員たちから言われましたよ、ひとりで反対しても意味ねえだろうって。そう言われるたびに、いや、たとえひとりでも反対意見があったほうがいいんだと言い返していましたよね。そりゃそうでしょ、どうして反対意見が出るのかとみんなが考えるきっかけになるんだから。

 誰かが何かを言わないと、そのまますんなりと法案が通ってしまう。そんなことは納得できなかったんですよ。それぐらいですね、わずかに抵抗できたのは」

――いえ、わずかな抵抗であったとしても、尊いじゃないですか。

「あとは公共事業のチェックをする議員連盟で活動したことでしょうか。そこの会長のなり手がいなかったんです。というのも、会長になった途端、落選しちゃうから(笑)。選挙応援のスポンサーはすべて降りちゃうし、なんやかんやと邪魔が入る。族議員にすれば、触れてほしくない公共事業のチェックをされたら自分たちが危なくなる。もう必死ですよ、族議員も。

 それで最終的に私のところに会長を引き受けてくれないかと話がきた。当時の私は東京選挙区なので公共事業に関係なかったんですよ。利害関係はないし、ぜひ、会長にと言われてね。そのとき、引き受けてもいいけど、俺が会長になったら徹底的にやるぞ、と返答したわけです(笑)。それから数年間、日本各地の公共事業の現場を駆け回って、いろいろと無駄な経費を炙り出したり、地元の住民でさえ知らなかった官民癒着の実態を暴き出し、新聞などのマスコミを巻き込んで大変な騒ぎになったんですよ。その結果、黒い服を着たおっさんたちに囲まれたこともあったし(笑)」

――ひゃぁあああ。

「中村敦夫を叩き潰すみたいな話はずいぶんとありましたけど、めげずにやり通しましたね。その議員活動はそれなりの効果はあったようで、与党の中央にいた政治家たちに、公共事業の不正はいかに重要な問題であるかを改めて突きつけてやることができた。そして、その先には重大な環境問題が控えていました。これは大テーマですから、別の機会でないと時間を喰いすぎます(笑)」

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プロフィール

佐々木徹

佐々木徹(ささき・とおる)

ライター。週刊誌等でプロレス、音楽の記事を主に執筆。特撮ヒーローもの、格闘技などに詳しい。著書に『週刊プレイボーイのプロレス』(辰巳出版)、『完全解説 ウルトラマン不滅の10大決戦』(古谷敏・やくみつる両氏との共著、集英社新書)などがある。

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ラクに生きられる方法はわかっている。でも、できない。そこが私と紋次郎は同じなんですよ