神道とキリストとピラミッド
それにしても、十字架が一つでなく二つあるのは、どういうことなのでしょうか。
看板の解説によると、墓の一つはイエス・キリストのもの、もう一つはキリストの弟である「イスキリ」のものとなっています。弟? イスキリ? 謎は深まるばかりです。奥にある小さな資料館で、キリスト、イスキリ、戸来村の関係についての説明を読みました。要約すると次のようになります。
――エジプトで生まれたキリストは、21歳までイスラエルで過ごした後、シルクロードを経て日本に渡った。それからしばらく日本で暮らし、34歳の時にエルサレムへ戻ると、日本で学んだ神の教えをもとに宗教活動を行い、最後には磔刑に処された。しかし実はこの時、弟のイスキリが身代わりになっていたのである。死を免れたキリストは苦難の旅の末、再び日本にたどり着き、105歳まで戸来の地に暮らした――。
伝承館に来るまで、青森のキリストの墓はキリスト教の信者によって作られたものだと、私は漠然と思っていました。しかし、この不思議な歴史はキリスト教とはほとんど関係なく、日本の神道から湧き上がったものでした。
昭和10(1935)年に神道系の新興宗教「天津教」の開祖であった竹内巨麿が戸来を訪れ、キリストの墓を発見した、ということになっています。「戸来」とは「ヘブライ」に由来した地名であり、それこそが戸来村がキリストの滞在した地である証拠、ということだそうです。
竹内巨麿は戦前の日本において「竹内文書」という怪しい古代文書や、数々のオカルティックな主張で物議を醸した人物でした。彼が天津教の聖典とした竹内文書には、キリストとイスキリだけでなく、モーゼや釈迦など世界的宗教の開祖がみな日本に来て、天皇に仕えたと記されています。
そもそも富山県に生まれた竹内巨麿が青森を訪れた理由はキリストの墓ではなく、彼が日本にあると信じていたピラミッドを探すためでした。彼はそれも無事に見つけたようで、キリストの墓のすぐ近くには「大石神ピラミッド」なるものが存在します。ちなみに石川県には彼の主張するモーゼの墓があります。
私は長年、神道系の宗教法人「大本」の国際部に勤めていたので、竹内巨麿の考えには拒絶感というよりは、むしろ一種の親しみやすさを覚えました。竹内文書では、モーゼの十戒には「表十戒」「裏十戒」「真十戒」も存在するとされているそうですが、物事は表だけでなく裏もあるという考えは、大本の基礎を固めた出口王仁三郎の文献でもたびたび見られるものです。キリストのアナグラムとおぼしきイスキリという言葉は、神道哲学によく出てくる言霊の一種に感じます。また、青森にキリストが来たという物語からは、20世紀の神道が持っていた「国際化への憧れ」がうかがえます。キリストは日本で神の教えを学び、最後は日本の墓に入った。モーゼや釈迦は天皇に仕えた、などという発想には、戦前の日本が持っていた、他国への支配的な思想が垣間見られます。
竹内巨麿がある日、戸来村を訪ねてキリストの墓を発見したという逸話は、村の中で「キリスト湧説」と呼ばれています。湧説とは文字通り、どこからともなく湧き出たお話のことですが、私は有吉佐和子が書いた『ふるあめりかに袖はぬらさじ』という芝居を思い出しました。
幕末、横浜にあった遊郭を舞台にしたこの物語は、貧しい花魁の亀遊が屋根裏の女中部屋で喉をカミソリで切る事件から始まります。アメリカ商人に買われることになった亀遊は、好きな男との恋がかなわぬことに絶望して、自ら命を絶つことになったのですが、この噂が人々の口の端に乗るうちに、どんどん飛躍して、やがて尊皇攘夷にまでこじつけられるようになります。いわく、亀遊は実は水戸の侍のお嬢さんで、勇ましい攘夷女郎だった。いわく、大座敷で家宝の剣を使って喉を切り、血が天井まで飛び散った、などと滑稽なまでに話が膨らんでいくのです。最終的に「亀遊」の字は「亀勇」に変えられ、大座敷には「列女亀勇自決の間」という大きな額が掲げられて、お客はその歴史を味わうために部屋を訪れるようになります。「湧説」はこのようにして「歴史」に成り代わっていくのかもしれません。そして、世界中の歴史の多くは湧説なのかもしれません。
みちのくの果てにキリストの墓があるのはありえないことですし、イスキリも架空の人物です。それでも青森の田舎にひっそりたたずむこの墓は、キリストの墓としてふさわしいように私には感じられました。
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