ディープ・ニッポン 第5回

青森(1)キリストの墓、十和田湖、奥入瀬渓流、二ドムカムイ(ブナの巨木)

アレックス・カー

「日本一のブナ」を求めて、森の中へ

 気を取り直して、ここから今回の旅のいちばんの目的である「木」を訪ねて行くことにします。日本一大きなブナといわれる「ニドムカムイ」です。アイヌ語で「ニドム」は「豊かな森」、「カムイ」は「神様」を意味します。

 ニドムカムイは奥入瀬渓流の西側の森林の中にありますが、たくさんの人が訪れる渓流側とは違って、こちら側には人の姿は見当たりません。奥入瀬の自然に目を奪われた私たちは、出発予定時刻を大幅に遅れ、さらに天候が崩れてきたこともあって、道を進むうちに周囲が薄暗くなっていきました。さらにニドムカムイへと続く細い道にさしかかったところで、恐ろしい看板を目にしました。

「警告! 遭難多発区域 携帯電話GPS圏外 助けを呼べません! 安易に入山しないこと」

入山警告の看板

 意を決して先へと進むと、ニドムカムイの森に入る山道が現れました。入り口に熊の彫刻が置かれ、倒れかかった丸太に、今度は「熊に注意」と刻まれています。「助けを呼べません!」を見た後の「熊に注意」の文言は不気味なものでした。しかし「どうしても日本一のブナを見たい」という気持ちが勝ち、車を降りて森の中へと分け入りました。

熊出没注意の看板

 森の中はシンとしていて、私たちが道を踏みしめる音のほかに、生き物の気配は感じられません。このあたりの森には古木、巨木が多く、幹周りの太い木がたくさんあります。大きな木を見る度に「これだ!」と思うものの、どれも目当てのものではありません。一本道をさらに進んでいくと、やがて森が開ける場所に出て、ついにニドムカムイが現れました。このブナの木は幹周り6メートル、樹高30メートルで、空に向かってほぼ左右対称に広がった枝がアーチを描いています。

 木目が極めて細かく、成長速度が遅いブナは、樹齢200年、300年と長寿です。そのことをかんがみても、ニドムカムイは想像を絶するスケール感で、その威厳あるたたずまいは、まさしく「森の神様」でした。

ニドムカムイ

 残念ながら日本では森林環境が年々悪化し、それにつれて巨木自体も弱ってしまう例が多くあります。ニドムカムイは樹齢400年といわれていますが、今も元気な状態を保ちながら、豊かな森の中にそびえ立っています。奥入瀬一帯の自然が、この先も保全されていけば、あと数百年は安泰ではないかと、安堵する気持ちが湧いてきました。ニドムカムイの周りにも立派なブナの木がたくさんありました。次のカムイもしっかり育っていくだろうと、希望が持てました。

 ニドムカムイにみとれているうちに、あたりは急速に暮れてきました。熊の出没を警戒しつつ、来た道を引き返して、今日の宿がある弘前へと向かいます。今度は来た時とは別の方角となる十和田湖の北側沿いの山道を通りました。山の木々はすでに冬に向かっているのか、ほとんどの葉を落とし、むきだしになった枝が四方に伸びています。その枝のシルエット越しに十和田湖が見え、薄暗くなった空の奥の方では、夕焼けが最後の光を放っています。その景色はみるみるうちに闇にのまれ、カメラを構える間もなく真っ暗になりました。

十和田湖 日没後の眺め

(つづく)

構成・清野由美 撮影・大島淳之

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ディープ・ニッポン

オーバーツーリズムの喧騒から離れて──。定番観光地の「奥」には、ディープな自然と文化がひっそりと残されている。『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』のアレックス・カーによる、決定版日本紀行!

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プロフィール

アレックス・カー
東洋文化研究者。1952年、米国生まれ。77年から京都府亀岡市に居を構え、書や古典演劇、古美術など日本文化の研究に励む。景観と古民家再生のコンサルティングも行い、徳島県祖谷、長崎県小値賀島などで滞在型観光事業や宿泊施設のプロデュースを手がける。著書に『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』(ともに集英社新書)、『美しき日本の残像』(朝日文庫、94年新潮学芸賞)、『観光亡国論』(清野由美と共著、中公新書ラクレ)など。
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