鳥居と木にフレーミングされた岩木山
そこから岩木山神社に向かう途中に「高照神社」を見つけました。入り口に大きな鳥居が立っていますが、人はあまり訪れていないようです。ここは四代藩主、津軽信政の廟所で、参道の先に見える丹塗の門と拝殿が凛とした、たたずまいです。信政は幕府の保護下で発展した「吉川神道」に帰依し、1710年に彼が没した際に、五代藩主の信寿は葬儀を仏教式ではなく、吉川神道で執り行いました。そして墓をこの境内に作り「高照霊社」という名の廟所にしました。その名前は明治時代に「高照神社」に改められています。
高照霊社は江戸時代末まで、津軽地方一帯の最重要の地として重んじられ、歴代藩主から崇められてきました。社殿の多くは、2006年に重要文化財に指定されていますが、今ではほぼ忘れ去られた存在です。寂れた境内では御宝蔵の茅葺き屋根が朽ち、社殿の丹塗も色褪せて部分的に剥げていました。しかし境内には大きなイチョウ、しだれ桜、サワラなど、たくさんの古木が残っていました。古い神社には時の流れを感じさせるものがあり、明るくピカピカに塗り直されたものより、その侘しさが心に響きます。
岩木山神社は高照神社からすぐの場所にありました。参道手前にある駐車場からの眺めは息をのむほど見事で、境内に入る前から感動しました。霊山である岩木山の山頂には神社の奥宮があり、参道からは鳥居と木にフレーミングされた岩木山が、神社の延長線上に見える配置になっています。鳥居の先からは石畳が、二の鳥居、三の鳥居を経て神社本殿へと、ゆるやかな傾斜で続いています。参道の両脇には芝生があり、その外側に立派な木々が連なっています。その神社の背後に岩木山がそびえているのです。
社殿の近くまで行くと、右奥に大きな茅葺きの社務所が立っていました。大僧正が来賓を迎える迎賓館の造りで、茅葺き屋根の建物としてはめったに見られないスケールのものでした。
岩木山神社がこれだけの規模をもった理由は、ここが神仏習合の時代にできた霊場で、神社でありながら百沢寺という仏教寺院でもあったことが考えられます。当初は天台宗の寺院で、途中から新義真言宗に変わりはしたものの、祭神はずっと岩木三所大権現でした。百沢寺はもともと岩木山の頂上近く、今の奥宮の付近にありましたが、火山の噴火で焼失した後、現在の場所に移されました。百沢寺は青森の中でも極めて重要な寺院で、江戸時代には津軽藩の総鎮守を務めていましたが、明治時代の廃仏毀釈で廃されて、岩木山神社となったのです。現在の社務所は、昔はお寺の本坊だったと思われます。
参道に戻りましょう。江戸時代の初期に作られたという丹塗の楼門(もと百沢寺の山門)前の石階段を登ると、珍しい狛犬に会うことができました。掛け軸や屏風絵ではしばしば「昇り竜・下り竜」というテーマが見られますが、これは「昇り狛・下り狛」といえるもので、一頭は上向き、もう一頭は下向きになって、石の柱をつかんでいます。
拝殿を出て、参道を下っている時にもう一つ、気付いたことがありました。境内に見苦しい看板がまったくありません!
『ニッポン景観論』(集英社新書)を著した時から、私はずっと日本の景観マネジメントの問題点を指摘し続けていますが、日本の神社仏閣はとにかく看板であふれ返っています。金属板に真っ赤な字で「順路」「火気厳禁」「駐車禁止」「立入禁止」「撮影禁止」「厄除け受付」などなど、清らかで神々しいはずの神社の境内が「ビジュアルジャンク」に汚されています。
しかし岩木山神社の境内では、管理している方たちの神様への尊敬の念が強いのでしょうか、不調和なものはほとんどなく、神社本来の清涼な空間が保たれています。心配りは参道沿いの照明にまで至っており、現代的でありながら、神社の趣を損ねないデザインで整備されていました。
参道をはじめ、この境内のすべてが私は気に入りました。伊勢神宮、四国の金毘羅宮(金刀比羅宮)、京都の石清水八幡宮、大分の宇佐神宮など、いろいろな神宮を見てきた中で、岩木山神社はトップ・ファイブに入ると思いました。
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