戦争遺跡と美しいビーチの対照
翌日も島ちゃんのガイドで、午前に戦跡ツアー、午後は自然ツアーにおもむきました。朝の出発前にあらためて島ちゃんから、小笠原の概要を簡単に教えてもらいました。
小笠原諸島に属する島々は、太平洋のかなり広い範囲に広がっています。父島と母島を中心とした「小笠原群島」に加え、南にある硫黄島などが属する「火山(硫黄)列島」と、いくつかの孤立した小さな島々があります。日露戦争後に、日本の海軍が南洋進出の前線基地を整備した経緯があり、第二次世界大戦前には父島を要塞化し、島中に軍事施設が作られました。1945年に硫黄島でアメリカ軍と衝突していた時には、父島と母島も激しい空襲に遭い、その時に軍事施設はほぼ壊滅しました。
私のような戦後生まれのアメリカ人にとっても、硫黄島とガダルカナルという二つの地名は、太平洋戦争時の激戦地として強く記憶に残っているものです。特に「硫黄島の星条旗」として有名な、ジョー・ローゼンタールによるモノクロの報道写真は、ワシントンDCにある海兵隊戦争記念碑のもとにもなっており、この地名には特別な感慨を抱きます。
現在、硫黄島は一般人の上陸はできません。代わりに父島での戦跡めぐりで、過去の歴史をたどることができるようになっており、それら軍事施設の名残を、島ちゃんの先導で回っていきます。
南洋の植物が生い茂ったジャングルの中の細い山道をかき分けて歩くと、軍事用に使われた洞窟や陣地壕に残った錆びた大砲などが、そこかしこに残っています。兵隊たちが残した酒瓶や醤油瓶、金属の水筒などが地面の所々に散らばっていました。そのころ、兵士たちがささやかな楽しみにしていたご馳走は「辛味入り汁掛飯」すなわちカレーライスだったそうです。
父島では島民の多くは1944年に本土へ強制疎開となったため、沖縄と違って民間人の犠牲は少なかったといわれていますが、兵士たちは島の閉ざされた環境で戦い続けました。
時代はすっかり違うものに変わり、戦跡めぐりも大きくは観光の一部になっていますが、薄暗い洞窟にたたずんでみると、戦争の重苦しさがじんわりと伝わってきます。
その洞窟を抜けた崖地の先には、美しい海が真っ青な空の下に広がっています。そのあまりにも強い対照が非現実的でした。
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