「ボニン・アイランダー」の自負
この日の夜は夕食後に「ヤンキータウン」というバーに行ってみました。私の母校である横浜のセント・ジョセフ・カレッジ(SJC)に通っていたリロイ・ワシントン(Leroy Washington)の親戚にあたる大平ランス(Rance Washington)さんが町で経営しているバーです。大平ランスさんのことはSJCの同窓生のネットワークで教えてもらいました。宿のロックウェルズでも、マスターの佐藤さんに父島の欧米系の住人のことを訪ねたところ、隣に住んでいる父島出身の大工の佐藤さんを呼んで一緒に調べてくれました。佐藤さんも友人知人に電話でいろいろと聞いてくれて、結局「だったらヤンキータウンに行くのがいちばんいい」という話になりました。
ランスさんはアメリカで二十年間働き、アメリカの永住権を得た後、1994年に父島に帰島しています。彼がハンドメイドで建てたヤンキータウンは、ログキャビンのような、ラフな魅力にあふれるバーでした。
ランスさんは、ある記事のインタビューで、「なぜ島に戻ったか」という質問に対し、「きっと頭のどこかで、自分が最終的に帰る場所は小笠原だと分かっていた。俺はボニン・アイランダーだからな」と答えています。「ボニン・アイランダー」という言葉から、彼の自負と島への強い意識が感じ取れます。
小笠原諸島は1952年以降、68年までアメリカの施政権下に置かれていました。ランスさんが生まれ育ったのも、その時代です。「ヤンキータウン」という命名は、この町全体がまさしくヤンキータウンだったことを考えると、バーとしてぴったりに感じました。
その晩の目的は、SJCで一緒だったリロイ・セーボレー(Leroy Savory)、チャールズ・セーボレー(Charles Savory)兄弟の消息について、ランスさんにたずねてみることでした。ランスさんはとても愛想が良くて、美味しいジントニックを作ってくれましたが、私の質問をどこか警戒している風も感じられ、彼らの話を根ほり葉ほり聞くことは憚られました。まったくのアウトサイダーである私が、そう簡単に島のコミュニティに入り込めるわけがありません。しかし、ハンドメイドのバーは居心地がよくて、ジントニックには海軍の島ならではのおいしさがありました。次の晩もまたヤンキータウンに来ようと決めました。
(つづく)
構成・清野由美 撮影・大島淳之
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