江戸時代後期から続く農村舞台
第3回の滝巡りで訪れた那賀町には数棟の芝居小屋があります。せっかくの機会でしたので、以前から気になっていた「拝宮農村舞台」に足を延ばしてみました。ここは江戸時代後期の建築で、徳島県の中でも最も古い農村舞台の一つです。
舞台は行事の時以外は閉まっているため、事前に「拝宮農村舞台保存会」の人に連絡を入れ、特別に開けてもらうよう頼んでおきました。拝宮集落は「大轟の滝」より南に行ったところに位置しており、山道をしばらく走ると里が見えてきました。数軒の家の周りには石垣で段差を作った棚田があり、きれいに手入れされています。この集落の少し先に、舞台が設置されている「白人神社」がありました。
苔むした岩の間を流れる小川を渡ると、その先が境内で、舞台小屋は高い石垣で仕切られた半円形の広場に面して立っています。舞台小屋のすぐ裏には巨大なスギの木。幹の太さや樹高からすると、樹齢は六百年以上になるかもしれません。
舞台の建物は幅六間(9メートル)と広いもので、舞台右手の前側に「太夫座」(義太夫と三味線の演奏者が座るボックス)が約四十度の角度で附設されていることが特徴です。つまり義太夫が舞台を観察できるような作りになっているのです。舞台小屋入口の上部には「寛政十年」(1798年)の看板が掛かっていました。
舞台小屋の中に上がらせてもらいました。保存会の人が風通しのために建具を外していたため、前面と背面の壁がなくなり、前の広場と後ろの森がそのままつながっています。ただ、舞台の下座の建具は完全に外されておらず、人の腰ぐらいの高さまで木の板が残っていたので、中は少し薄暗い感じでした。この板は「蔀帳」といい、観客の目から人形遣いの下半身を隠したり、足のない人形があたかも地面を踏んでいるように見せたりする仕掛けです。蔀帳は可動式で、神楽や日本舞踊の上演時は板を倒すことでステージ全体を完全に見られるようになります。
先に述べた通り、徳島県には拝宮の舞台も含めて二百八棟の人形芝居小屋があります。山深い奥地にあっても芝居が盛んな国は、世界的にも珍しく、これは日本の文化的特徴の一つといえます。
そのルーツは先史時代まで遡ります。日本で最も古い歴史書「記紀」には、アマテラスが天岩戸に隠れた際に、アメノウズメという女神が岩戸の前で踊りを披露して神々を喜ばせたという話が記されており、それが神楽の始まりといわれています。 神社の拝殿前に設けられた神楽殿は、日本における劇場の原点でした。そこで神事として行われた神楽は、さまざまな演劇に発展していきます。江戸時代には歌舞伎と浄瑠璃が全国に広がり、熱狂的な人気を博しました。江戸や大坂のような都市だけでなく、小さな町に至るまで、神社とは関係なく大衆娯楽の劇場が建てられました。歌舞伎役者がどれだけ人気を誇っていたかは、浮世絵などからも垣間見ることができます。
演劇ブームは農村まで席巻し、江戸時代後期には、およそ二千カ所の農村舞台が全国に存在していたといいます。多くの農村舞台は神社や寺と一体になっていて、芝居はお祭りや祭礼と同時に行われました。拝宮の農村舞台も例に洩れず、白人神社の境内にあります。
私にとっても、芝居・音楽・踊りは人生に欠かせないものです。
1960年代、横浜に住んでいた少年のころは毎週のようにラジオ番組の「民謡をたずねて」を聞いて、テープレコーダーに録音していました。アメリカに戻ってからはオペラに魅了され、オックスフォード大学時代は、よくロンドンでバレエを観ていました。77年以降、日本に定住するようになってからは能楽と歌舞伎に夢中になり、近年は京劇、タイ舞踊にも興味を持つようになっています。
京都・亀岡の自宅で文化イベントを催す時は、芸妓さん、舞妓さんを呼び、和蝋燭を灯して、金屏風の前で舞ってもらいます。バリ島やジャワ王朝の踊り、京劇、日本舞踊の女形の舞などの踊り手とも交流があり、なかなか見る機会のない舞踊を楽しんでいます。それゆえ、こうした農村の芝居小屋にも親しみを感じるのだと思います。拝宮農村舞台は建物の構造だけでなく、芝居小屋に面した半円形の広場や隣接する神社もすばらしく、いつかここで舞踊のイベントを開きたいと夢が膨らみました。
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