山を下り、海の道へ
今回はつるぎ町から那賀町の轟の滝まで、西阿波の山間部を広範囲にわたって走ってきましたが、徳島は山の地だけではありません。四国自体が海に囲まれた大きな島で、徳島には海の地もあります。城満寺から国道193号を下りきると、そこから先は大洋の眺めです。徳島県最東端の蒲生田岬から高知との県境までは「阿南海岸」と呼ばれる長い弓状の海岸線が続き、山地側とは風土がガラリと変わります。
その海岸沿いに古い町並みを残す鞆浦という漁村があります。瀬戸内海の鞆の浦と似た地名で、何となく親しみを感じて寄り道することにしました。
海部川の河口に位置する鞆浦は古来、海運の要衝として繁栄し、戦国時代には海部氏の「鞆城」もありました。鞆城は、江戸時代に廃城となって鞆陣屋に変わり、そのうち陣屋も東の日和佐に移されてしまい、現在は小さな漁港のみとなっています。鞆浦と奥浦という二つの港が隣接していた名残で、「鞆奥漁港」という名が使われています。
ここでは漁港特有の細い路地を挟み込むように、古い木造家屋が密集しています。大正もしくは昭和初期あたりに建てられた家々だと思いますが、格子窓やうだつのついた贅沢な家もところどころにありました。しかし町の中を歩く人はおらず、過疎による衰退は明らかでした。今後さらに寂れ、近い将来、このような町並みが見られなくなることを想像すると、虚しい気持ちにとらわれました。
鞆奥から阿南海岸を蒲生田岬に向かって北上します。牟岐という町から日和佐にかけて「南阿波サンライン」という道路が通っており、その途中に海を望める展望台が四カ所あります。しかし、このあたりの地形は入り組んでいて、山の木々も茂っているため、上から見ても海岸の全貌は把握できません。阿南海岸の美しい風景を堪能するには、船に乗って海から見る方がいいかもしれません。
日和佐を出て木岐、由岐を経て、旧街道を東へ走ると阿南市、美波町の遍路道につながります。ここには四国八十八カ所霊場の二十二番札所「平等寺」と、二十三番札所「薬王寺」があり、お遍路さんの歩いている姿を何度か見かけました。
お遍路さんは俗世から離れた世界を巡っていますが、ほとんど無人だった南阿波サンラインの景色を眺めてきた私は、逆にその姿を見て、「ああ、文明のある場所まで戻ってきた」と感慨深い気持ちになりました。ここまで来たら、最終目的地の蒲生田岬灯台まであと少しです。
四国の最東端、蒲生田岬と、海の向こうにある和歌山県の日ノ御埼を結んだ線は瀬戸内海と太平洋の境界になっています。灯台のあるところまで急な階段を上がると、周囲に広がる海を一望でき、少し先に伊島、遠方には紀伊半島が霞んでいました。ここから真南に進めば、次にぶつかる陸地はニューギニア島です。内陸の急峻な山地、剣山の奥深くにあるかくれ里を抜けて、阿南海岸を走り、最後にたどり着いたのは、海に面した蒲生田岬でした。
徳島の旅は、私が親しんだ祖谷の東側にある剣山を中心に、裏祖谷を巡るものでした。それは文字通り「裏」を探訪する旅となりました。剣山の一帯は祖谷とよく似た険しい地形を持ち、住む人は少なく、雨と霧に包まれた秘境です。世界農業遺産に認定された、つるぎ町猿飼集落のそば畑に見られる傾斜地農耕は、日本では非常に珍しい風景です。
奈良時代以前から宮中に司った忌部氏の子孫は、木屋平地区で「三木家」として、その役割をいまも担っています。都を離れて千年以上、阿波の山で秘めやかに暮らす三木家は、裏から見た日本史の象徴ともいえる存在でした。
徳島の自然の中に残る神社境内には、農村舞台や樹齢千年のスギの木など、おとぎ話のような場所がありました。それらは「無垢」のものであり、現在の日本では年々探しにくくなっています。「拝宮農村舞台保存会」の人の話では、現在、拝宮の里に住むのは十人前後で全員が高齢者です。いつ農村舞台の面倒を見られなくなったとしても、おかしくありません。猿飼集落で西岡田さん夫妻が営むそば畑も同じ問題を抱えています。いくら世界の農業遺産として認定されていても、急傾斜農業の知恵を持つ人がいなくなれば、守ることは難しくなります。
逆にいうと、そば畑も拝宮の農村舞台も、現在までどうにか守られてきたことが奇跡的なのかもしれません。今回は数時間もの間、対向車と一台もすれ違うことのない、静かな山奥の道路を走りました。その中に「失われた幻の世界」を発見することができました。
(徳島編おわり)
構成・清野由美 撮影・大島淳之
オーバーツーリズムの喧騒から離れて──。定番観光地の「奥」には、ディープな自然と文化がひっそりと残されている。『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』のアレックス・カーによる、決定版日本紀行!