アメリカ的正義の物語としての『真昼の決闘』
映画全体は10時35分から正午(映画の原題はHigh Noon=正午)の決闘までを描いており、映画の上映時間と出来事の時間経過が一致している。
ハドリーヴィルの町の保安官ウィル・ケインは、その日にエイミーと結婚し、退職してこの町を去る予定である。ところがそこに、ケインがかつて逮捕した悪党のフランク・ミラーが釈放され、正午の列車で町に来るという知らせが届く。一味とともにケインに復讐をするつもりなのだ。
一旦はエイミーとともに逃げようとするケインだが、思いなおして町に戻り、保安官としての職を全うしようとする。ところが、クエーカー(プロテスタントの一派で平和主義・非暴力主義を教義とする)のエイミーには愛想を尽かされ、町の人びとに、ミラー一味との決闘に加勢するよう働きかけるものの、恐れをなした人びとはそれに応えないどころか、教会での集会ではミラー一味の標的であるケインが町を去るべきだという決議までなされる。
ケインは結局一人で一味と決闘することになり、遺書を書く。正午の列車で到着したミラー一味との決闘では、エイミーのひそかな加勢も得て、勝利する。彼を称賛して集まる町の人びとに対し、ケインは保安官のバッジを地面にたたきつけ、エイミーとともに町を去る。
『真昼の決闘』は、正義を体現し、ゆらぎなく強力な保安官を中心とするそれまでの西部劇のパターンを塗り替えた。彼は町の人びとからの支持を得られず、それでも死を覚悟しつつ町を守る。
だが、ここまで述べたことからすれば、それまでの西部劇からの逸脱に見える『真昼の決闘』こそ、英雄物語の本道に接近していることが分かるだろう。
まずこの映画は貴種流離譚的である。ケインはハドリーヴィルの保安官(=王)であるが、その町のコミュニティから放逐される。ミラー一味との対決にあたってコミュニティに支持されるどころか、彼こそが悪を引き寄せているものとして弾劾されてしまうのだ。
円環構造についてはどうだろうか。確かに『真昼の構造』は円環構造をなしている。町の秩序はミラー一味によって脅かされるのだが、ケインが彼個人の信念と「正義」を貫くことによって、町の秩序は回復される。
だが、作品冒頭の町の秩序と、結末における秩序には大きな差異がある。その差異はもちろん、ケインの不在である。いや、元々ケインは保安官を辞めて町を去る予定ではあったものの、彼の「去り方」が決定的に異質なものになっているのだ。
ハドリーヴィルAとハドリーヴィルBの秩序と法は全く違う。町の人びとは、ミラー一味から町の秩序を守るためという名目でケインを追放しようとした。しかしおそらくケインが去ったところで町の秩序は守られなかっただろう。それどころか、彼が去れば残されるのは真の無法状態だっただろう。
MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。
プロフィール
(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。