現代社会と向き合うためのヒーロー論 第2回

法の外のヒーローたち|『ダークナイト』『真昼の決闘』

河野真太郎

『ダークナイト』の「技」とポピュリズム

 だが、『ダークナイト』は『真昼の決闘』の図式をそのままくり返しているのだろうか? 2008年の作品ならではの現代性がそこにはないのだろうか? 

 私は、『ダークナイト』はまさに『真昼の決闘』が確立したような、20世紀的アメリカのヒーロー物語の臨界点に存在する作品だと考えている。それを考えるには、正義と悪、そして「ポピュリズム」という言葉を導入する必要があるだろう。

 この作品のジョーカーは、従来の愉快犯的な悪さと同時に、人間からその「悪」の側面を引き出す狡知が最大の特徴である。物語の後半は、「光の騎士」であるハービー・デントを悪の道に引きずりこむことにジョーカーが成功するが、囚人たちの乗ったフェリーと一般市民の乗ったフェリーが、お互いの船にしかけられた爆弾の起爆装置を渡されるという「社会実験」においては、人びとの中から「悪」を引き出すことに失敗するという筋書きである。

 取り調べの場面においても、ジョーカーはバットマンの中から「悪」を見事に引き出すところへと迫っていく。この場合それはジョーカーに対する暴力であり、復讐である。

 作品を通じて、バットマンはジョーカーを殺せる場面に少なくとも二度遭遇するが、二度とも彼を救う。これはバットマンが「正義」であり「善」であることを示しているというよりは、ジョーカーを殺してしまえば彼はこれを限りに「悪」へと闇落ちしてしまう、そのようなジョーカーとの共犯関係に、バットマンは入っていることを示しているだろう。

 『ダークナイト』、というよりジョーカーの存在には二通りの解釈が可能だろう。一つはある種素直な解釈で、ジョーカーは人びとの「悪」を引き出して闇落ちさせる「悪」だというものである。その場合、バットマンはそのような「悪」と戦う「正義」である。

 だが、この作品は正義と悪との境界線を、もっと危険な形で踏み破っている部分があるのではないかと思う。それは、この作品がここまで述べたような意味での英雄物語、つまり英雄は共同体の法の外側に出てこそ英雄になれるという意味での英雄物語であることに由来する。

 簡単に言えばこういうことだ──共同体の法の外側にいるという意味で、バットマンとジョーカーの間にどんな違いがあるのか?

『ダークナイト』©2014 Warner Bros. Entertainment Inc.

 もちろん、素直に読めば、物語はその間の違いを肯定することを本体としている。先述のフェリーの「社会実験」では、結局は囚人の船も一般市民の船も、起爆装置を押すことをしない。人びと(ピープル)の中には(囚人の中にさえも、また囚人を人扱いしない中流階級の中にさえも)「善」がある。それがジョーカーを敗北させる。これが『ダークナイト』の本筋である。

 だが、現在の私たちは、そのような物語を信じることができるだろうか? 現在の、というのは、トランプ以後でありポストトゥルースの現在ということだ。

 アメリカだけではなく世界を席巻しているように見えるトランプ的なポピュリズムを経験した後で、私たちは『ダークナイト』の最後に置かれたような人びとの中の「善」にすべてを賭けることなどできるのか? むしろ、ジョーカーこそこの世の真実の側にいたのではないか? 

 実際、『ダークナイト』を奇跡のような名作にしたのはヒース・レジャーが命を削って演じたジョーカーによるところが大きい。私たちはあのジョーカーにどうしようもなく魅了されているのだ。

 『ダークナイト』の続編たる『ダークナイト ライジング』(2012年)が、ポピュリズムを主題としたことは、それゆえに、必然であった。『ダークナイト ライジング』の悪役ベインは、ゴッサムを封鎖し、ハービー・デントとバットマンについての真実を暴露して、市民が偽物の正義のもとに暮らしていたことを明らかにする。

 解放された囚人らの「市民軍」が上流階級に復讐をする場面は、この映画の9年後、2021年1月に発生した、トランプ支持者による国会議事堂襲撃事件を彷彿とさせずにはおかない。

 ポピュリズムは常に表裏一体である。それは弱者たちが団結して権力者に対抗することでもあり得るが、弱者たちがさらなる弱者を排斥するような政治にもなりうる。

 左派ポピュリズムと右派ポピュリズムと名付けるのは簡単であるが、トランプ主義のような政治を目の当たりにした私たちは、それらのポピュリズムの間の違いについてそれほどの確信を持つことはできなくなっているし、それゆえに『ダークナイト』が体現したような、20世紀アメリカ的な「正義」についても確信が持てなくなっているだろう。

『ダークナイト』©2014 Warner Bros. Entertainment Inc.

 であるから、あえて断言するならば、『ダークナイト』はすでに時代遅れとなっている。『真昼の決闘』以来の英雄物語とともに。「バットマン」シリーズの新作『THE BATMAN−ザ・バットマン−』(2022年)に、それほどに見るべきものがなかったのはそのためだろう。この作品に『ダークナイト』的なものを超える現代性は、残念ながら感じられない。

 実際、こういった問題を、アメリカのスーパーヒーローものの一部はちゃんと意識している。当然にここで考えるべきなのは、『ジョーカー』(2019年)であり、『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』(2019年)、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021年)ということになるだろう。また、ドラマの「ザ・ボーイズ」シリーズ(2019年〜)もそういった現在性に対する自意識で焼けただれたような作品である。

 これらの作品については本連載で続けて考察するとして、その前史に『ダークナイト』が存在し、それがそのような「型」にもとづく「技」であったかを理解しておくことは重要であろうと思うのだ。(つづく)

 

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©2014 Warner Bros. Entertainment Inc.

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MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。

プロフィール

河野真太郎

(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。

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