現代社会と向き合うためのヒーロー論 第2回

法の外のヒーローたち|『ダークナイト』『真昼の決闘』

河野真太郎

円環構造と貴種流離譚はなぜ重要か?

 私がこの二つの特徴が重要だと考えているのは、それらが英雄物語の現代的バリエーション(技)を考えるにあたって鍵となるからである。そこで、この二つについて少し掘り下げてみよう。

 まず円環構造について。英雄物語は、キャンベルの図に従えば出発点と同じ場所に戻っている。確かに、『オデュッセイア』は、オデュッセウスが王として帰還し、イタケーの秩序が回復されることで円環を閉じる。

 だが、ここで考えておきたいのは、出発点(イタケーAとしておこう)と終着点(イタケーB)は同じものか、という点である。イタケーAとイタケーBは、オデュッセウスが王として君臨するという大まかな意味では確かに同じである。

 しかし、本当にそうだろうか。例えば、ちょっと想像をたくましくして、オデュッセウスの息子テーレマコスの内面に何が起きたかを考えてみたらどうだろう(実際は、現代小説などと違って、ホメロスの物語で登場人物の内面が描かれることは少ないのだけれども)。

 テーレマコスは父を探す旅に出かけ、老人の姿の父と再会し、求婚者たちを殺害する。私にとっては『オデュッセイア』はオデュッセウスの物語であると同時に、テーレマコスの成長の物語としても想像されてしまう。

 テーレマコスに成長があったなら、そして彼と同様に他の登場人物たちにも変化があったなら、イタケーAとイタケーBはもはや同じものとは言えないだろう(このテーレマコスの物語、つまり父捜しと成長の物語は、それ自体重要な「型」なのだが、それについては次回以降に論じる)。

 このように、英雄物語における円環構造は、「差異を伴った円環」である。物語の出発点の秩序と、終着点の秩序は異なっている。その差異のあり方は、当然に時代や文化、そして個々の物語によって違うだろう。

 イタケーAとイタケーBの差異のあり方を説明するアイデアのひとつは、人類学者のクロード・レヴィ゠ストロースによる、「冷たい社会」と「熱い社会」という有名な対立概念である。

 冷たい社会とは、変化のない社会であり、熱い社会とは、変化を基本とする社会のことだ。例えば自分の父母の世代と、自分の世代の生活が、基本的には同じことのくり返しであるような社会は冷たい社会であるし、生活水準などが向上していて当然だと考えるのが熱い社会である。その意味で、現代の社会はどこまでも熱い社会だと言える。

 イタケーAとイタケーBの同一性と差異は、そのままその社会の冷たさと熱さの問題であるだろう。冷たい社会であればAとBは同じであろうし、熱い社会になればなるほどAとBの差異は大きくなる。その意味ではテーレマコスの成長にAとBの差異を見いだそうとした私の読解は、少し「熱い社会」の前提に寄せすぎの読解であるかもしれない。

 このことと、二点目の貴種流離譚は深く関わる。貴種流離譚とはつまり、主人公がまずは彼の故郷(共同体・国)から放逐され、従来のアイデンティティを奪われ、その後にその秩序へと還っていく物語を指す。

 それに関して押さえておくべきなのは、(1)まず、前提として主人公が共同体の法の外側に放逐されなければならないということと、(2)主人公が帰還して作りなおす共同体の秩序・法は、円環構造について述べたことからすれば、当初の秩序・法とは異質なものになる可能性もある、ということだ。

 以上が、私が重要だと考える英雄物語の「型」である。では次に、現代においてその「型」に基づいてどのような「技」がくり出されているか、見てみよう。

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現代社会と向き合うためのヒーロー論

MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。

プロフィール

河野真太郎

(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。

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