『ダークナイト』の衝撃
今回考えてみたいのは「バットマン」シリーズ、その中でもとりわけ、私がシリーズの最高傑作だと思っている、クリートファー・ノーラン監督による「ダークナイト・トリロジー」の第二作『ダークナイト』(2008年)である。
『ダークナイト』を公開当時に観た私は、かなり深い驚きを覚えた。『ダークナイト』はアメコミものの文法をさまざまな意味で破る作品に思えたのである。
正義と悪との明確な区別とそれに基づく勧善懲悪、それにともなう、善の主人公の内的葛藤のなさ……そういったものをかなぐり捨て、『ダークナイト』はヒリヒリするようなリアルさを獲得した、旧来のアメコミヒーローものとは一線を画するように思えたのである(漫画的ではないリアルさを追求するヒーローものはその後多く作られるようになったが、おそらく『ダークナイト』の影響は絶大だろう)。
その「ヒリヒリするようなリアルさ」の大きな源泉は、バットマンが既成の「正義」の内部に留まる存在ではないことだ。バットマンはゴッサム・シティの犯罪を警察の法の外側で(肝心の警察も腐敗しているので)取り締まる自警である。法の外側、というよりは法がそもそも成立しなくなっている混沌状態において「自らの法」に従って裁きを行う。
このことは、故ヒース・レジャーによって極上の演技をほどこされた本作品のジョーカーとの対決によって強調される。ジョーカーが逮捕された際の取り調べ室での二人の対決は、映画史上に残るべき名場面だろう。
このシリーズのバットマンは、地獄の底から聞こえてくるような低いしゃがれ声を特徴とする。『バットマン ビギンズ』(2005年)で描かれたように、バットマンは恐怖の対象として自己演出をすることによってゴッサム・シティーに平和をもたらそうとした。
つまりバットマンはダークヒーローの類型に当てはまるのだが(ちなみにダークヒーローは、イギリスの詩人のバイロンに由来する「バイロニック・ヒーロー」という系譜に属する)、ダークヒーローは共同体とその法の外部に出る、または放逐されることによってこそ、ある種の「正義」を守る。
そのように考えると、『ダークナイト』は実のところ、ヒーローものの文法を破ったというよりは、ヒーローもののひとつの本道だったのかもしれない。つまり、前節まで論じた、貴種流離譚と円環構造という「型」を使った現代版の「技」だったのかもしれないのだ。
そのことを理解するために、『ダークナイト』と原理的に類似しており、アメリカの文化的系譜という意味でも重要なある作品について述べておこう。西部劇の名作、『真昼の決闘』(1952年)である。
MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。
プロフィール
(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。