前回論じた『ダークナイト』が公開された2008年は『アイアンマン』の公開年であり、マーベル・スタジオが立ち上げられてその後MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)という形で、ひとつの世界観のもとにさまざまなヒーロー作品が制作されていく出発点となる、記念碑的な年だった。
背景を簡単にふり返っておこう。コミックに依存していたマーベルは、90年代初頭のコミック収集ブームが過ぎ去った1996年には破産してしまっていた。この頃までは、スーパーマンやバットマンを擁するDC映画と比較して、マーベル映画は揮わなかった。2000年代に入って『X-MEN』(2000年)や『スパイダーマン』(2002年)で評価と興行成績を高めていくが、これらの作品はマーベル自体に大きな利益をもたらさなかった。
その状況をひっくり返したのが『アイアンマン』とそれに続くMCU作品群であった(こういった事情については、てらさわホーク『マーベル映画究極批評 アベンジャーズはいかにして世界を征服したのか?』(イースト・プレス)に詳しい)。
前回は、アメリカのヒーローものは、紀元前8世紀末まで遡るホメロス以来の英雄物語の「型」の変奏(技)であり、そこには伝統的な型という制約があるのだが、同時に新たな時代が刻印されてもいることを論じた。
では、MCUの起源たる『アイアンマン』とそのシリーズはどのような型と交渉し、どのような技を繰り出しているのだろうか。
MCUはなぜ『アイアンマン』から始まったのか
今でこそアイアンマンはMCUの柱である。確認しておくと、2008年の『アイアンマン』に端を発するMCUは、『アイアンマン』から2012年の『アベンジャーズ』までのフェーズ1、2013年の『アイアンマン3』から2015年の『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』と『アントマン』までのフェーズ2、2016年の『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』から2018年の『アベンジャーズ/インフィニティー・ウォー』を経て2019年の『アベンジャーズ/エンドゲーム』と『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』までのフェーズ3に分かれている。
現在進行中のフェーズ4からフェーズ6は「マルチバース・サーガ」と呼ばれ、ユニバース(ひとつの世界)が平行世界を含むマルチバース(複数世界)へと広がっていっている。
これは隠しておくわけにはいかないので述べておくと、アイアンマン=トニー・スタークは『アベンジャーズ/エンドゲーム』の結末で世界を救うことと引き換えに死んでしまう。フェーズ1〜3までは、アイアンマンは作品としてもMCUを成功に導いたきっかけであり、ヒーローとしてもアベンジャーズ(マーベル・ヒーローたちのチーム)のリーダーだったのだ。
だが、2008年の時点でアイアンマンがそのようなキャラクターとして成功することは約束されてはいなかった。それどころか、マーベル・スタジオがMCUをキックオフするにあたってメリルリンチ銀行から資金を用立てた際の製作予定リストに『アイアンマン』は入ってさえいなかった(『マーベル映画究極批評』18頁)。アイアンマンはマーベル・ヒーローとしてそれほどの認知を得ていなかったのだ。
そして、アイアンマンであるトニー・スターク役に(初期プランに対してはトム・クルーズやニコラス・ケイジも興味を示したにもかかわらず)ジョン・ファヴロー監督がロバート・ダウニー・Jr.を推したこと、これも大きな賭けだった。ダウニー・Jr.は90年代には薬物中毒で身を持ち崩した前歴を持っていたし、それまでブロックバスター映画で主演したこともない俳優だったからだ。
しかし、『アイアンマン』は見事なヒットを飛ばし、アイアンマン(トニー・スターク)とそれを演じたダウニー・Jrはその後のMCUの「顔」となった。
私は、これは単なる偶然ではないと考えている。『アイアンマン』は英雄物語の「型」にはまりつつ、2000年代という時代を敏感にすくいとって独自の「技」をくり出し得たゆえに、あれほどに重要な作品たり得たのだ。
MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。
プロフィール
(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。