藤田 そうでしょうか?
杉田 傲慢で、露悪的で、情にもろくて、女性に頭があがらない。でもどこか強い夫や父親でもありたくて、誰も俺のことを分かってくれない、という被害者意識も抱えている。猥談や武勇伝が大好きで、自分の生活の範囲以外のことについては、非常に無神経。そういう、よくいる「おじさん」の感性の持ち主ではないか。
そういう「男」として、じゃあどう生きればいいのか。そういうことをある時期の彼は突きつめようとした。色々と試行錯誤したけれど、なかなかうまく見つからない。そういう感じがあるんですね。
たとえば『錨を上げよ』では、延々と、原稿用紙二四〇〇枚に渡って、自分の「男」としての生き方を模索するんだけれど、全く成長も成熟もしない。成長小説(ビルドゥングスロマン)の構造を持ちながら、成長小説にならない。
あるいは『永遠の0』では、自分が特攻隊で死ぬ時に、最後にこの世界に何を残せるか、というモチーフがあります。国家は信じられない。軍隊も信じられない。では何が残るか。最後に信じられる拠り所は、やはり家族であると。だから恥をさらしても、卑怯者と罵られても、何としても生き延びて、家族だけは守りたい。
それはおそらく、特攻隊員というよりも、「戦後」の会社員としての「普通のおじさん」たちの死生観と同じものなのではないか。自分が何のために働いて何のために死ぬのか、その意味を家族に求めた。求めざるを得なかった。
たとえば、現在のリベラルな戦後民主主義者を牽引する内田樹は、『「おじさん」的思考』(二〇〇二年、晶文社)という本の中で次のようなことを言っています。戦後の平凡な「おじさん」たちは、今や、若者からもフェミニストからもポストモダニストからも批判されて、「この状況にどう対処してよいか分からぬまま、ただ呆然と立ち尽くしているばかりである」。
実際、現在も「おじさん」バッシング(嘲笑、からかい)が公然と行われているわけですね。もちろん、PC(ポリティカル・コレクトネス)的あるいはリベラルな基準からは批判されるべき点がたくさんあります。でも、戦後民主主義的で高度成長的な庶民やサラリーマン、「正しいおじさん」の中にあった「人倫」(人間としての倫理)それ自体までを否定できるのか、そこには軽視も嘲笑もできない何かがあったのではないか──と言うんですね。
《それでも、何と言われようと、「正しいおじさん」たちは、仲間たちと手に手を取って額に汗して仕事をするのはそれ自体「よいこと」だという職業倫理からは逃れられないし、「強いお父さんと優しいお母さんとかわいい子供たち」で構成される理想の家族像を手ばなせないし、「強きをくじき、弱きを助ける」ことこそとりあえず人倫の基礎だと信じているし、争っているひとびとを見れば、ことの理非はともかく割って入って、つい「話せば、分かる」と言ってしまう。
だが、いまはそういう「正しいおじさんの常識」が受け容れられる時代ではない。》(『「おじさん」的思考』)
ベストセラー作家にして敏腕放送作家。そして「保守」論客。作品が、発言が、そしてその存在が、これ程までメディアを賑わせた人物がかつて存在しただろうか。「憂国の士」と担ぎ上げる者、排外主義者として蛇蝎の如く嫌う者、そして大多数の「何となく」その存在に触れた人々……。百田尚樹とは、何者か。しかしながら、その重要な手がかりであるはずの著作が論じられる機会、いわば「批評」される機会は思いのほか稀であった。気鋭の批評家、文芸評論家が全作品を徹底的に論じる。
プロフィール
藤田直哉
1983年生まれ。批評家。日本映画大学専任講師。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『虚構内存在:筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』、『シン・ゴジラ論』(いずれも作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)などがある。朝日新聞で「ネット方面見聞録」連載中。文化と、科学と、インターネットと、政治とをクロスさせた論評が持ち味。
杉田俊介
1975年生まれ。批評家。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。20代後半より10年ほど障害者支援に従事。著書に『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書)、『無能力批評』(大月書店)、『長渕剛論』『宇多田ヒカル論』(いずれも毎日新聞出版)、『ジョジョ論』『戦争と虚構』(いずれも作品社)、『安彦良和の戦争と平和』(中公新書ラクレ)など。