なぜM-1は国民的行事になったのか 第7回

お笑いと炎上

手条萌

バラエティと炎上

近年、表現やコンテンツを取り巻く意識や価値観が大きく変容している。その結果、さまざまな表現がSNS上などで「炎上」することを頻繁に見かけるようになった。もちろん、お笑いもそれとは無縁ではない。とりわけ、バラエティ番組は槍玉に挙げられやすい。バラエティにおいて出演者は、自分の素のままを出しているように見なされがちである(「平場」とも呼ばれる)。そうした場面で「問題のある」発言をした際に、その言葉を発した本人が「問題のある」意識を持っていると考えられてしまいやすい。実際はそのようなことはなく、場の流れを緻密に計算した上での発言がほとんどであるので、バラエティで盛り上がる発言を突き詰めた結果、「問題のある」と認定されるような発言が飛び出す場合がある。

そもそもお笑いとコンプライアンスは切っても切り離せない歴史を歩んできた。日本PTA全国協議会が2011年まで毎年行っていた、会員の保護者とその小学5年生・中学2年生の児童を対象にしたアンケートにて「子どもに見せたくない番組」の調査には、お笑い色の強いバラエティ番組も多く挙がっていた。「いじめにつながる」「性的である」「低俗だ」などという理由での選出であったが、昭和・平成のバラエティはそれらの意見に怯むことなく、むしろ過激な表現はますます加速していった。

しかしこれについては、少々昨今の炎上理由とは異なるように思われる。

かつての炎上は、価値基準が(親にとって)「子供に見せたくない」という観点か、番組倫理向上委員会(BPO)における審議対象になったかというだけで(そもそもBPOの発足は2003年である)、それを報じるのは週刊誌やテレビ、スポーツ紙など一部のマスメディアのみという状況であったため、番組の作り手や出演者への影響はスポンサーの進退程度だっただろう。現在の炎上の構造は、ただ単に「低俗だから」などの理由だけでは発生しにくい。炎上の原因となった当人のみならず周辺の人物たちが、SNS上での暴露合戦をおこない、それらの声を集めたネットニュースの「巧み」な切り取り記事によって、まったく何も知らなかった人にまで飛び火してき、SNSプラットフォームや動画サイト、ニュースサイトのコメント欄が「汚染」されていく。タチが悪いとゴシップまとめ系インフルエンサーの取り上げるところとなり、さらなる炎上が巻き起こっていく。まさにSNSの感情増幅装置としての役割が遺憾なく発揮され、事態はさらに悲惨になっていく。

こうして炎上した本人は精神がゴリゴリと削られていくのだが、大変残念なことに今の時代はこの一連の流れ自体がコンテンツであり消費されるものであるという状況である。しかしここでそのことを嘆いたり、逆に「コンプライアンスに配慮しない!」といった露悪的な態度を取るのは非常に幼稚である。重要なのは物事を切り分けて考えることだ。

お笑い=バラエティという共通認識

そもそも、なぜ芸人がバラエティ番組で炎上するという構造が出来上がったのだろうか。

その理由は単純で、「お笑い=テレビバラエティ」という共通認識が強すぎる点だ。そもそもバラエティとは、本来はお笑いのことではない。さまざまな立場のタレントが出演し、普通にトークもしてもいいし、普通のゲームをしてもいいのである。というか、しているはずである。にもかかわらず、多くの人がなぜかバラエティにはお笑いの要素がなければならないと集団錯覚してきた。それも理由は単純である。バラエティ番組において芸人たちの働きが「有能」でありすぎたためだ。評判が評判を呼び、ますますお笑い芸人が出演することになっていった。たとえばフジテレビが1981年に掲げた「楽しくなければテレビじゃない」というスローガンや、80年代の同局を表す「軽チャー路線」という言葉に象徴されるような番組作りは、90年代以降「めちゃ×2イケてるッ!」(1996-2018)~「はねるのトびら」(2001-2012)などのお笑い色の強いバラエティのムーブメントとつながっていった。

それと同時に、芸人も多く参加する「クイズ番組ブーム」、「ひな壇ブーム」など、お笑い芸人を多数含む大人数のタレントで溢れ返る画面がおなじみになっていった。そしてその流れは現在の「ラヴィット!」(2021-)へと確実につながっているだろう。そこにM-1やKOCなどの全国賞レースの決勝や「エンタの神様」(2003-2010、以降不定期)、「爆笑オンエアバトル」(1999-2010)などの演芸番組的なもの、「笑う犬」シリーズ(1998-2003)や「リチャードホール」(2004-2005)的なコント番組をはじめとした作品性やキャラクター性が高いもの、とんねるずやダウンタウン、ウッチャンナンチャンなどの(今となっては)レジェンドのMCによる番組群、そして「笑っていいとも!」界隈、BIG3(タモリ・ビートたけし、明石家さんま)の番組など、バラエティ=お笑いというイメージを作り上げた要素はとにかく枚挙にいとまがない。テレビバラエティの隆盛については、門外漢の筆者などより多くの読者の方のほうが詳しいところだと思うので特にこれ自体を掘り下げるつもりはないが、ここで重要なのは、お笑い=テレビバラエティであると多くの国民が思うことになるには十分なほどの歴史とコンテンツ力がある(あった)、という事実である。

では、この次々送られてくる芸人はどこからやってくるのだろうか。

その筆頭が賞レースだ。M-1グランプリをはじめとした各賞レースのチャンピオン、あるいは注目を浴びた人たちがテレビを「一周」し、そしてそのあと何周もするのである。特に現在では、M-1予選で目立った人気のある組が「ラヴィット!」へ送られ平場を鍛え、その後M-1ファイナリスト、そして「相席食堂」でロケのスキルを見られ……といったルートが多いだろうか。このルート自体はここ数年のものであるが、賞レースがバラエティタレント発掘のための機会となっているのは古今東西まぎれもない事実だろう。芸人側の視点でいうと「M-1きっかけで売れる」という、あの王道思想である。

そこに加えて(ほとんど重複しているが)、有能な人材は大阪からメディア露出強化のためにやってくる。記憶に新しいところでいうと、2023年春のロングコートダディ・ニッポンの社長・マユリカ・紅しょうがら、当時よしもと漫才劇場で人気メンバーだった面々がまとめて上京した大型上京が話題になった。大阪芸人における「上京」とは端的に言ってしまうと全国ネットのテレビへの出演のためである。そしてその道を作ってきたダウンタウンが頂点におり、バラエティで活躍し、そののちにMCとして民を束ねる状態が天下と定義され、人々の共通認識となっていったのはこれまでの連載で追った通りである。天下のための一歩、まずは売れたいから上京しM-1で活躍する、という構図と思想は今でもなお上京組の王道であるだろう。

上京というイニシエーションを経る大阪発の芸人か、もともと東京が拠点なのでそのままM-1での躍進と全国メディア露出を目指すかという差こそあれ、目指す方向は実はそこまでの差異はない。旧M-1の時代よりも現在のほうがこの流れは顕著、というか可視化されやすくなっているだろうが、基本的にはM-1で注目を浴びるとテレビバラエティへ送り込まれる点自体は新旧でも同様である。もちろん、M-1出場可能なキャリアを事実上終えてから上京するという、大阪吉本に見られる劇場主義のパターンもあるが、大きな流れとしてはこの志向と流れそのものが、お笑い=バラエティとする状況を強固なものにしていっている。こうして各賞レースの回数が重なるごとに、有能な人材として見つかり続けた芸人たちはバラエティに送り込まれ、バラエティがお笑いと定義されているのだ。

これに加えて、お笑い=バラエティと定義された重要な事象がある。それはまぎれもなく『リンカーン』である。「人民の人民による人民のための政治」ならぬ「芸人の芸人による芸人のための番組」をコンセプトに、2005年よりTBS系列で放送開始され、2013年に惜しまれつつ幕を閉じたレジェンド番組である。このコンセプトは明らかにバラエティをお笑いと定義づけるものであった。しかもこのレギュラー陣が、ダウンタウン、さまぁ~ず、雨上がり決死隊、キャイ〜ンという、M-1以前のブレイク芸人、および天下人であった。

そして2023年10月よりスタートした、「リンカーン」イズムを継ぐ「ジョンソン」により、可逆的に「リンカーン」イズムはより強固なものとして再認識された。

膨大なテレビバラエティの歴史をこのように駆け足でまとめるのは不可能であるが、いずれにしても押さえておきたいのは、ダウンタウン的天下、新しい波などに代表される「軽チャー路線」、そしてM-1をはじめとした実績により送り込まれる有能な芸人たちによる大量出演、そして「リンカーン」「ジョンソン」の「THE PROGRAM OF THE GEININ, BY THE GEININ, FOR THE GEININ.」イズム、その他細かい事象が複雑に絡み合って、お笑いとはバラエティのことを指すことになっていったということである。

M-1では反コンプライアンスと恋愛ネタが炎上する?

ここまでお笑いとバラエティの関係性について見てきたが、M-1、特に決勝戦においては、ゴールデンタイムの地上波での放送となるため、非常に多くの人が目にすることになる。2023年大会での決勝戦の平均世帯視聴率は関西地区で28.0%、関東地区で17.2%という速報値が出ている。そのため表現についてはより慎重になるべきなのである。

そもそもM-1ほどの大きな大会となると表現の問題がなくとも賛否の「否」の部分が目立ちやすくなる。特にXでの無責任な実況は1年に1度しか漫才を見ない人による、ウエストランド井口氏風にいうところの「皆目見当違い」な言説で溢れがちだ(井口氏は私のような者に対して言っているのだと思うが)。しかし「国民的」というのは1年に1度しか漫才を見ない人が見るものということでもある。そうすると世論はますます混沌を極める。だいたいポストされがちなのは普通におもしろくない(ように彼らには見える)ネタや結果についての不満、予選の文脈が排除されるため前提が共有されていないことによる不穏さ、審査員へのヘイト、ファイナリストへの態度、そして漫才の定義などである。定義をめぐる混乱は20年大会でマヂカルラブリーが優勝した後に発生した「漫才論争」が代表的なものだろう。

しかしこれらのポスト群は炎上というよりは単なるトレンドである。代理店やSNS運営チーム、局にとってはむしろ喜ばしいことだろう。こうしてSNSでの盛り上がりを見せることもまたM-1の存在感を強めるのである。

ここで言及すべきなのは、このような構造や結果におけることではなく、表現に対しての賛否である。賞レース、特にM-1においてはネタのコンプライアンス意識も厳しく判定される。予選にABCやテレビ朝日所属の審査員が入っているのは、このコンプライアンス視点のチェックという面も大いにあることだろう。つまり、コンプラにひっかかるネタは賞レースにおいてはウケにくいのある。

「過去の昭和・平成的バラエティにおいて許されてきたことが許されなくなった」という言説が一般化して久しい。これを窮屈と感じたり、「言葉狩り」「表現の自由」と反論したい出演者やウオッチャーは多いことだろう。しかしそもそもとして、どんな方向性のものとだとしても、公共良俗に反する表現がある場合はウケにくい。構成や展開にとって必然性がない場合は、競技漫才として点を下げられることもある。単独ライブのように、自らの表現したいことや自分の思想を発表する作品作りが歓迎される場面もあるだろうが、賞レース、そして競技漫才においては不安要素やノイズになりうる表現は極力刈り取ることが重要である。それがコンプライアンスが関係していようがしていまいが、単純に稚拙であるという評価をされることは納得できるところだろう。表現の自由があるが、その自由を叫ぶことが漫才にとってベストかどうかは別の問題ということである。

しかしこれを逆手に取るパターンも散見される。コンプラ題材系の漫才は一定数行う組もいる。わかりやすいところでいうと、ニューヨークの「軽犯罪」(2020年のM-1グランプリ披露ネタ)、祇園の「炎上しない桃太郎」(祇園 Official YouTubeにて2020年3月公開・2020年予選で披露)、そしてシシガシラが2023年のM-1で披露した「ハゲという言葉だけが、なぜかコンプライアンスをすり抜ける」というテーマの漫才だろうか。

これらは過剰なコンプラへの皮肉となっているネタであるが、皮肉が活きるという構造になり笑いを生んでいるため、非常に高度なスキルである。このスキルが評価されているのであり、決して逆張りや必然性のない主義主張が支持されているからではない。ここをなぜか特にネタを見慣れていない人たちが混同しがちであるが、一応形式上コンプラに気を遣っているテイなので、言い逃れできるという点でもいい意味で狡猾であり、技術点的に高評価を得やすい。

とはいえこのような手法はさまざまな芸人が取り入れ始めており、今後はよほどの技術を見せないと、少々渋い評価になっていくことだろう。

漫才はあくまでも芸人が作った「ネタ」であり「フィクション」であるが、人間が話しているという特質上、バラエティのような「平場」とも取られてしまうことがしばしばある。

そして、あまり歓迎されない表現として、意外なことに恋愛ネタが挙げられる。正直、私のようなJ-POP全盛期を生きてきた人間(ルビ:老害)からすると、「恋愛こそがあたりさわりのない誰にでも共通することなのだから、誰にでもわかることをネタのテーマとして挙げるのは気も遣えてとてもGOOD!」とすら思うのだが、実はここに落とし穴がある。

まずひとつに、そもそも恋愛は誰にでも共通することではない。ここには、恋愛を笑いに用いること自体が非モテへの蔑視につながるという指摘や、そもそも恋愛をしない人もいるにもかかわらずそれが共通言語である前提で話を進めることのリスク、そして「恋愛」よりも一方的に対象を愛でる「推し」文化が一般化してきたという複合的な要因がある。

そして、恋愛ネタが好まれないもっとも大きな理由としては多くのネタが異性愛規範を前提にしているから、である。あたかも当然のように男女の恋愛を前提として進行する会話はもはや共通認識ではないし、共通認識だと思っていること自体が差別的だという考えにより、ウケにくくなっている。

ミソジニー的なウオッチャーからは「女ウケ」「ワーキャー向け」などと揶揄されることも多く(それはそれで問題であるが)、どのようなセクシャリティの人からも歓迎されないものになりつつある。「恋愛の時代が終わった!」というのは容易いが、そもそも最少人数の二人が行う漫才で、その近似である関係性の恋愛をテーマにする安直さがスキル的に評価が低い、という見方もできるかもしれない。

しかし最近のトレンドとしては、コンプライアンスに気を遣いすぎた反動なのかなんなのか、過剰に下ネタを繰り返したりするかど明らかに飛ばしたネタを行う組も散見される。こうした傾向はM-1予選において、あえて漫才論争にかけられそうな動きのあるネタや飛び道具的な動きのあるネタなどと同じく、とにかくインパクトを残したいという文脈や意図が垣間見られる。

嫌な叙述トリックとしての切り抜き記事

さて、ここまでバラエティの炎上、M-1での表現と炎上を見てきた。もう一つ、昨今のお笑いにおいて、いや、芸能においての課題として言及しておく必要のあることがある。それは公私についてだ。この場合の公私とは仕事とプライベートというよりかは、テレビなどのファンではない人も多く触れる可能性が高いコンテンツと、オンラインサロンや配信のない劇場公演など自分のファンしか触れないであろうコンテンツでの振る舞いの出し分けについてである。ファン向けの媒体ではついつい本音が出がちだろう。しかし恐ろしいのは、それが文字起こしや切り取りをされて、意図とは異なる叙述トリックで炎上してしまうという構造だ(ちなみに見取り図は、「発言がメディアによって切り取られて言っていない見出しをつけられる」ということを巧妙に漫才のテーマにした)。

近年はラジオでの発言がネットメディアに取り上げられたことによる炎上が増えている。ラジオは実はテレビと同じくファン以外も大いに触れるメディアであるにもかかわらず、その特性上なぜかクローズドな雰囲気があり、ついつい口を滑らせてしまいがちだ。前後の文脈を無視して切り取られ、ネットニュースになるというケースが頻発している。切り取る悪意、対立を煽るメディア、ヘイトに溢れたコメント欄……というループがどんどん加速していく。こうして特にお笑いファンでない人からの厳しい意見が増えていき、ますます収集がつかないことになってしまうという構造である。

しかしこの状況を嘆いてもしょうがない。どんな時代だとしても、笑いは社会に、そして人間に必要である。本当は日常の中にささやかな微笑みが見つけられれば、あるいは周りの人とのコミュニケーションで笑えれば、お笑いなど必要がないのかもしれない。しかし私たちが笑いを欲するときに、日常生活でそれを探すのはなかなか難しいだろうし、自ら誰かを笑わせたりすることは相当なエネルギーを要する。。だから、私たちは笑いという言葉の頭にいつでも「お」をつけて持ち歩いてくれている人たちのことを(槇原敬之 「LAUGH! LAUGH! LAUGH!」)求めるのだろう。目の前にいる人を笑わせるという場面で、無駄に尖った表現は必然性があるのだろうか。

芸人や観客にその見極めや、自問自答を促すトレーニングとなっているのが、M-1におけるコンプライアンス意識なのかもしれない。

(次回へ続く)

 第6回
番外編  
なぜM-1は国民的行事になったのか

いまや漫才の大会としてのみならず、年末の恒例行事として人気を博しているM-1グランプリ。いまやその人気は「国民的」とも言える。なぜあらゆるお笑いのジャンルのなかで、M-1だけがそのような地位を確立できたのか。長年、ファンとしてお笑いの現場を見続けてきた評論作家が迫る。

プロフィール

手条萌

てじょうもえ

評論作家。広島県尾道市生まれ。『カレーの愛し方、殺し方』(彩流社、2016年)で商業デビュー。『平成男子論』(彩流社、2019年)のほか、『ゼロ年代お笑いクロニクル おもしろさの価値、その後。』『2020年代お笑いプロローグ 優しい笑いと傷つけるものの正体』『漫才論争 不寛容な社会と思想なき言及』『お笑いオタクが行く! 大阪異常遠征記』『上京前夜、漫才を溺愛する』など多くの同人誌を発行している。

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