エジプトにおける「人権上の懸念」とは?
エジプトで「人権上の懸念」として問題になっているのは、2016年11月に議会を通過したNGO規制法に、2017年5月にシーシ大統領が署名し、発効したことだ。この法律について、親イスラエル・ロビーとも近い関係にあり、米政権に影響力を持つワシントン近東政策研究所(WINEP)は「もし、大統領によって署名されれば、エジプトのNGOと市民社会の抹殺に向けた最後の一撃となるだろう」と極めて否定的な記事を掲載した。
記事では「この法律は、いかなる事務的な侵害であっても罰金だけでなく禁固刑にするという厳罰化を含んでいる」とする。その例として、「いかなる組織の長が、公的な許可を得ることなく本部を移転させれば、最高50万エジプトポンド(約310万円)の罰金に加えて1年から5年の禁固刑となる」をあげる。さらに「外国の組織がエジプトで許可なく国家的な活動を行ったり、事前に許可を得ることなく現地委調査や世論調査を行うことに、現地のNGOが支援したり、参加したりすれば、同様の罰となる」としている。
さらにWINEPの記事では「法律はNGOを新しい規則で縛るだけでなく、その財源を、国内からのものを含めて、干上がらせるものである」としている。その理由として、次のように書く。「法律は、1万ポンド(約6万2000円)を超える寄付について銀行小切手によってでなければできないとしているが、人々がほとんど銀行小切手を使わないこの国では、無理な条件である。さらにNGOのための募金活動には、営業日30日前に公的な許可を取ることが求められている。もし災害があって、NGOが被災者救援のために募金を呼びかけようとすれば丸々一カ月を待たねばならないのであり、許可を得ることができないということもありうる」
NGO規制法をトランプは容認した?
エジプトでは、2011年のエジプト革命の後、民主的選挙で民政移行するまでの間、軍政となったが、軍政のもとで「外国からの違法な資金提供を受けていた」として欧米のNGO関係者ら43人が禁固1年から5年の有罪判決を受け、訴追された米国人の多くは保釈金を支払って出国した。今回のNGO規制法は、従来の規制法をさらに厳罰化したものだ。
米政治専門紙「ザ・ヒル」は、ティラーソン国務長官が2017年6月14日に米下院歳出委員会の国務・国外活動小委員会で行った興味深い証言を伝えている。
ティラーソン長官は「エジプトとの間で人権状況について行わなければならないことがたくさんある」として、シーシ大統領がNGO規制法に署名したことを初めて批判し、次のように述べた。「我々はシーシ大統領がNGO規制法に署名したことにひどく失望した。同法は特定のNGOの活動を妨げるものである。我々はエジプトとの間で、その法案が今後、いかに有害となるかについて議論している」
国務長官の証言に対して、民主党議員が「この法律は2016年11月にエジプト議会を通過したが、マケイン上院議員、グラハム上院議員らを含む国際的な強い批判を受けて、シーシ大統領は署名をためらっていた。しかし、最近になって彼は署名した。ほとんどの報道では、シーシ大統領はトランプ大統領がその法律を受け入れていることに力を得て署名したということになっている。あなたが言っていることは、矛盾している。問題は、エジプトは米国の意図を読み間違ったのかということであり、我々はこれについてどうすべきか、ということだ」と追及した。
これに対して、国務長官は次のように答えた。「私はトランプ大統領とシーシ大統領の間の議論に何度か関わっているだけだが、私が知るかぎり、NGO規制法に署名するように促す議論はなかった。我々は彼に署名を促してはいない。実際に、我々は『シーシ大統領は署名すべきではない』と伝えてきた。国家安全保障問題担当の大統領補佐官らが、シーシ氏に署名しないように要請したことも知っている。なのに、なぜ? シーシ大統領のほうに誤算があったのかもしれない。それは私には分からないが、我々は署名したことに対して失望の意を表明している」
NGO規制法の隠された意図とは?
NGO規制法へのシーシ大統領の署名が「人権上の懸念」の主な要因ならば、ムスリム同胞団の「テロ組織」指定が実施されていないこととは関係ないと思うかもしれない。しかし、米国がエジプトの人権状況への懸念を強めているのは、2013年7月にムスリム同胞団出身のモルシ大統領を排除した軍クーデターの後、オバマ前政権が軍事援助を凍結したことに始まる。
シーシ政権にとっては、いまだにムスリム同胞団が最大の政敵であるという状況は変わらない。今回のNGO規制法の厳罰化についても、①市民社会からの政府批判の排除、②市民社会とつながるNGOを介した欧米の影響力の排除――という2点以外に、「同胞団系の活動の排除」という目的が読み取れる。同胞団は貧困救済、医療活動、災害救済、孤児救済など市民の救済事業を草の根的な市民活動として実施し、民衆の間に支持を広げているからである。
ムスリム同胞団系の慈善組織で、断食月に行われていた食料配布 (2012年8月。撮影・川上泰徳)
今回、30日前の許可が求められることになったNGOの募金活動でいえば、1992年にあったカイロ地震での素早い救済活動で、ムスリム同胞団が民衆の間で称賛された例を思い出す。545人が死亡、6000人以上が負傷し、350のビルが全壊という悲惨なものだったが、当時、医師組合や技師組合の理事会をおさえていた同胞団は、政府の支援活動が遅れる中で、いち早く救済委員会を立ち上げて、被災者への医療活動や食糧支援、テント設営などを始めた。このことでムバラク政権は国民の非難を受け、同胞団が称賛を受けた。そのような社会的影響力をそぐために、草の根NGOの慈善活動に商人や実業家からの募金が集まるのを阻止しようとする意図が読み取れるのだ。
トランプ路線の見直し
オバマ政権は2013年7月の軍クーデターの後、1年8カ月間、エジプトへの軍事援助を凍結するなどの制裁的措置をとった。軍主導の暫定政権やその後に成立したシーシ政権は、同胞団を「テロ組織」として弾圧し、米議会でも同胞団を「テロ組織」として指定する法案が出たが、オバマ政権は受け入れなかった。その後、エジプトのシナイ半島に拠点を持つIS対策のために軍事援助を再開したが、シーシ政権による同胞団関係者を含む政府批判勢力の逮捕、弾圧を人権侵害として批判し、最後まで政治改革を求めた。
オバマ前大統領はシーシ氏をワシントンに迎えることはなかったが、トランプ大統領になって米エジプト関係は一転して友好的となり、2017年4月にはシーシ氏をホワイトハウスに招いて首脳会談を行った。朝日新聞は次のように伝えている。「トランプ氏は会談の冒頭、『非常に難しい状況の中、すばらしい仕事をしてきた』とシーシ氏を持ち上げ、『我々はテロと戦い、長く友人であり続ける』と語った。オバマ前政権が批判してきた人権問題には触れなかった」
今回、「人権上の懸念」を理由に米国がエジプトへの軍事・経済援助の中止または留保を決めたことは、トランプ大統領がシーシ政権に対してとってきた関係改善路線の変更であることは疑いない。それは「テロとの戦いのためであれば、エジプト国内の人権侵害には目をつぶる」と言わんばかりの、トランプ政権の「対テロ」最優先政策の見直しということにならざるを得ない。
中東情勢は、中東の国々と中東に関わる国々の相互作用で生まれる。米国が加わり、ロシアが加わり、日本もまた中東情勢をつくる構成要素の一つである。中東には世界を映す舞台がある。中東情勢を読み解きながら、日本を含めた世界の動きを追っていく。
プロフィール
中東ジャーナリスト。元朝日新聞記者・中東特派員。中東報道で2002年ボーン・上田記念国際記者賞。退社後、フリーランスとして中東と日本半々の生活。著書に『「イスラム国」はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)、『イラク零年』(朝日新聞社)、『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)など。共著に『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)。