ニッポン巡礼 Web版②

開発を免れた城下町と、手つかずの自然

山口県・萩【後編】
アレックス・カー

植林のない山に「新緑」の豊かさがある

 

 地方の旅は文化遺跡巡りばかりではありません。大自然が作った山や海岸、また棚田なども、農業の歴史の中で作られた一つの「自然庭園」だと私は思っています。

 千四百万年前の変成岩の断層である「須佐ホルンフェルス」というものを見てみたいと思い、萩市街の北東を目指しました。

須佐ホルンフェルス

 そもそも「ホルンフェルス」とは何のことでしょうか。聞き慣れない言葉ですが、灰白色の砂岩と黒色の泥岩からなる須佐層群が、マグマ熱の影響を受けて変化したものをいいます。海沿いにある須佐では、波と風の侵食を受け、崖一面が見事な縞模様になって露出しているのです。

 萩から片道三十分以上の道のりでしたが、道が空いているからか、須佐ホルンフェルスには、あっという間に着いた感じがしました。

 目的は須佐ホルンフェルスでしたが、道中の車窓から見た山に目を奪われました。山口から萩への道もそうでしたが、植林がほぼない山々は、日本の原生林特有のフワッとした丸みのある木々が密集しています。五月の新緑の時期で、山は茶、赤、緑、黄色など色彩豊かに染まっていました。

 私たちは五月ごろの緑を「新緑」と呼びますが、生え変わった新しい葉は様々な色を持っています。また、樹種にもよりますが、ごく小ぶりの花が木々の表面を覆って咲いているものもあります。それらは、黄色や茶色に彩られた「雪」のように見えました。

自然林の豊かさを残す萩周辺の山

 以前の「ニッポン巡礼」でも度々触れてきましたが、最近の日本を旅して残念に思うことは、戦後の植林、とりわけ杉の植林によって山が鬱蒼と薄暗くなってしまったことです。植林のされていない秋田や奄美の山を目にした時には、久しく見ることのなかった、日本本来の山の姿に喜びを感じました。

 今回は新緑の時期ということもあって、自然林がいかに豊かなものであるか、あらためて実感できました。でも、なぜ萩市が植林を免れたのかはわかりません。長門の辺りでは若干、植林が目につく場所もありましたが、どういうわけか山口県には全体的に植林が少ないようです。山口県では、山だけでなく、テトラポッドなど人工の構造物がほとんどない海岸、またブルーシートなどが放置されていない田畑の風景を、あちらこちらで見かけました。地元の人たちがこのことを誇りに思い、今後も自然林を守ってくれることを願っています。

 

須佐ホルンフェルスを「東尋坊」にしてはいけない

 

 須佐ホルンフェルスの話に戻りましょう。ここは自然の妙を感じさせてくれる風景でしたが、一つ懸念されることがあります。私たちが現地に行った時、人の姿はほとんどなかったのですが、山の上方に大きな駐車場がありました。

 現在は観光立国ブームで、日本にも大勢のインバウンド客が来る時代です。SNSの発達などで、静かな名所もひとたび情報が拡散されるや、あっという間に人が押し寄せ、本来の良さが荒らされてしまうことが少なくありません。オーバーツーリズム(観光過剰)の弊害が深刻化している今日、須佐のような自然の海岸にも、いつどのような形で観光公害が押し寄せてくるかわかりません。

 たとえば断崖の奇観で有名な福井県の東尋坊は、もとは美しく荒々しい自然の名所でしたが、無秩序な観光開発により、お土産店などの観光施設が乱立して、本来の自然の美しさは薄れてしまいました。

 日本は土木工事に立脚した「土建国家」です。観光需要が高まれば、必ずそれが土木需要となり、大規模な道路や山の斜面工事が行われます。幸い須佐ホルンフェルスの崖の上に安全柵はまだありませんが、観光客が増えれば、ピカピカのガードレールや派手な注意看板が設置されることが容易に予想できます。

 萩市、特に須佐地区はいかにホルンフェルスを美しい状態で後世に残していくか考えなければなりません。早急に観光客の規制、予約制の導入、周辺の景観保護などに取り組んでいく必要があります。

 結局、須佐ホルンフェルスのような美しい場所を見ても、「ああ、良かった」と純粋に喜ぶことが、私にはもうできません。日本との縁は、少年期から学生時代を経て、半世紀以上にわたりますが、その歳月は日本が持つ本来の美しさが、開発でどんどん失われていく時間でした。須佐ホルンフェルスのような、かくれた名所を訪ねても、逆に、いつどのように姿を変えてしまうかハラハラしてしまい、その心配で心が曇ってしまうのです。楽観することはできませんが、須佐ホルンフェルスの明るい未来をひたすら祈るばかりです。

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ニッポン巡礼

著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。

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プロフィール

アレックス・カー
東洋文化研究者。1952年、米国生まれ。77年から京都府亀岡市に居を構え、書や古典演劇、古美術など日本文化の研究に励む。景観と古民家再生のコンサルティングも行い、徳島県祖谷、長崎県小値賀島などで滞在型観光事業や宿泊施設のプロデュースを手がける。著書に『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』(ともに集英社新書)、『美しき日本の残像』(朝日文庫、94年新潮学芸賞)、『観光亡国論』(清野由美と共著、中公新書ラクレ)など。
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