白壁と水路と指月山
さて今回の旅の、最大の目的だった萩の城下町です。
ここに来る前から風情ある町の写真を見たことはありましたが、日本にある「小京都」などと呼ばれる町は、実は見どころがごく小さなエリアに限定されていることがほとんどで、今回もせいぜい三十分から一時間程度あれば、散策には十分だと予想していました。
しかし実際に訪れてみると、かなりの広域に江戸時代の古い町並みが残っていて、京都の祇園、金沢の三茶屋街、倉敷を遥かに凌ぐ規模だという印象を持ちました。
京都や金沢の旧市街は、有名でありながら、開発の進んだ周囲の地区に圧迫され、申し訳なさそうに肩身を狭くしています。萩では、江戸屋横町界隈、萩城近くの堀内地区、藍場川に面した地区など、旧市街が広い範囲にわたり残っています。加えて、周辺にも大規模な開発は見られず、昔の時代にタイムスリップする感覚に浸れます。
城下町の楽しみはいろいろとあります。私の場合、その一つが白壁です。萩の旧市街では、家屋敷と学校のような大きな敷地まで、それぞれが白壁に囲われています。どこまでも続く白壁の断面は、長方形ではなく、三味線の撥(ばち)のような末広がりの形をしています。
私がこのような壁の断面を最初に見たのは、大分県竹田市の武家屋敷通りでした。正式名称はわかりませんが、私はこれを「撥型壁(ばちがたかべ)」と呼んでいます。萩で撥型壁を発見したことで、戦国時代から続いた九州と山口の文化的なつながりを感じましたが、これはまだ推測に過ぎず、他の地方でも見られるものなのか、専門家に尋ねてみたいところです。
もう一つ、萩の城下町で印象に残ったのは、藍場川という水路沿いの武家屋敷跡でした。ここは京都の上賀茂地区の社家と似たつくりで、道と家との間に川が流れ、一軒一軒の家は、小さな石橋で道路につながれています。この地区にある「旧湯川家屋敷」に入ってみると、屋内の台所まで川の水を引き込む面白い構造になっていました。
古い町を歩くと、壁一つ、川一つにも、いろいろな思いが湧き出てきます。時間の許す限り、萩の旧市街を散策しましたが、すべてをしっかり見るには一時間どころか一週間でも足りないかもしれません。
さて、城下町とは文字通り、お城に属した町のことですので、核となるお城を見ずには帰れません。「萩城(指月城(しづきじょう))」は、明治初期の廃城令によって、建物をすべて取り壊されたため、今は堀の一部と石垣を残しただけの状態です。かつて天守閣の立っていた石垣は、水面から空へと跳ね上がるように大胆なカーブを描き、その曲線が富士を思わせる山の稜線とマッチしています。城の背後にそびえる指月山(しづきやま)は、その姿を堀の水面に悠々と映し出していました。普段はもっと多くの観光客が来ると思いますが、私たちが訪れたのは夕暮れ時。人が一人もおらず、周りは静寂に包まれていました。
ここで思い出したことがありました。 宋時代の法眼(ファイェン)禅師という人が残した一句に「以指指月指非月」というものがあります。意味は「指は月を指しているだけで、指は月ではない」となります。人の一生に置き換えて考えると、「修行や教えは究極の悟りを目指しているだけであって、悟りではない」。さらに強くいえば、我々は手の届かない月、つまり悟りの境地には永遠にたどり着けない、ということになります。
あまりに有名な話ですので、築城した長州藩の初代藩主も間違いなく知っていたはずです。お城の後ろにある指月山と、殿様が築いた指月城の名前には、詩のような美しさと同時に、哲学的な意味合いが含まれていました。城は百四十五年も前に姿を消しましたが、今に残った堀と石垣が、現世の我々に何かを伝えようとしています。
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。