20代から40代のシンガーソングライター時代、47歳の転機
僕は1960年生まれなので70年代が10代で、ポップスやジャズとの出会いがありました。クリス・コナーやビル・エヴァンス、アントニオ・カルロス・ジョビン、セロニアス・モンク、ナンシー・ウィルソン……。ジャズボーカルやジャズピアノを中心にボサノバにも取り憑かれました。
そんなジャズを本気で勉強し始めた矢先にポップスのシンガーとしてのデビューのチャンスが来て、そっちに全エネルギーをかけることになります。
ポップスのシンガーソングライターとしてデビューをした80年代はそのまま僕の20代であり、青春期の挫折や苦しみをカラフルな音符と歌詞で表現しようと無我夢中だった時代と言えます。
90年代、僕のポップスは少しだけジャズに近付く時代でした。心のままに作るポップスの単純明快さがほんの少し薄れ始め、インプロビゼーション(即興的演奏)やテクニックを聴かせるアプローチが見え隠れするようになると、複雑な色彩の作品が生まれました。
2000年代、40代に入ると人生は過度期に突入し、個人的には母や犬や友人との死という別れが訪れます。音楽は予定調和されたものから伸縮性のあるものへ、つまりジャズっぽいものへとゆるやかに移行し、歌だけではなくインストでも表現する機会も多くなります。そうなることにより、「ジャズ」は僕にとってまたとない格好の表現手段となります。
その後も僕の楽曲スタイルはポップスがジャズっぽく進化をしていくような時期が続いていたのですが、47歳でニューヨークのジャズの大学ニュースクール“The New School for Jazz and Contemporary Music”を受験して合格。事務所とレーベルを離れ、同居し始めた1歳の女の子ぴーす(ミニチュアダックス・現在17歳)とともにニューヨークに渡ることになります。やはり90年代から変化した音楽を振り返ってみると、それまでのポップスという枠だけでは表現しきれずに、10代の頃に一回諦めた「ジャズ」をもう一度しっかり勉強し直したいという思いが強まったのです。
学校の受験はジャズバラード、ジャズワルツ(3拍子)、ジャズブルース、ボサノバのフォームの曲をバンドで演奏し、その中で必ず自分のソロをやること。TOEFLの入学規定スコアをとること。自己紹介文を英語で書くこと、でした。
僕は確かバラードは「イン・ア・センチメンタル・ムード」、3拍子は「エミリー」、ブルースは「ビリーズ・バウンス」を演奏しました。ボサノバは「イパネマの娘」だったかな?
ジャズのメンターのベーシストの方にアドバイスをいただき、なんとかジャズらしい形に整えて提出しました。自己紹介文には「ジャズは昔ポップスでした。ビルボードのチャートの上位はジャズのスタンダード曲がいっぱいでした。いつからジャズは売れなくなったのでしょう?僕にもし入学するチャンスをいただけたら、いっぱいジャズを勉強してナンシー・ウィルソンがトップ10に入る曲を書いてみせます。僕にはその作曲の力があります。」と書きました。そして合格。慌ててTOEFLのスコアをクリアしニューヨークに渡ることになるのです。
プロフィール
(おおえ せんり)
1960年生まれ。ミュージシャン。1983年にシンガーソングライターとしてデビュー。「十人十色」「格好悪いふられ方」「Rain」などヒット曲が数々。2008年ジャズピアニストを目指し渡米、2012年にアルバム『Boys Mature Slow』でジャズピアニストとしてデビュー。現在、NYブルックリン在住。2016年からブルックリンでの生活を note 「ブルックリンでジャズを耕す」にて発信している。著書に『9番目の音を探して 47歳からのニューヨークジャズ留学』『ブルックリンでソロめし! 美味しい! カンタン! 驚きの大江屋レシピから46皿のラブ&ピース』(ともにKADOKAWA)ほか多数。