離婚のきっかけは夫の浮気だった。気づいたのは、夫のポケベルにかかってきた1本の電話。不自然なまでに動揺し、さっとポケベルを隠す夫の様子に、ふっと違和感が芽生えた。その頃、次男が自転車から落ち、頭を打った。車で病院に連れて行ってほしいと何度、ポケベルにかけてもつながらない。何気なく、夫のポケベルにかかってきた電話番号にかけてみた。一瞬、見ただけだったが、番号は覚えていた。案の定、女性が出た。返って来たのは、一言。
「あっ、バレた?」
そこに夫が、たまたま着替えに戻ってきた。不承不承、次男を病院に連れて行った夫は、自宅の前で有紗さんと次男を降ろすや、「じゃあ、行くわ」と走り去り、その晩は帰ってこなかった。「私は車の免許も持っていないし、 次男に何かあったら」と、一睡もできなかったという有紗さん。
翌朝、「チビ、どうせ何ともなかったんだろう」と帰って来た夫に、有紗さんは告げた。
「女と一緒だったんでしょう。女がいることはわかっている。もう、実家に帰って。この家から出て行って」
寝耳に水の夫は、すぐに出て行くことはなかったが、連日、飲み歩くわけだから、有紗さんにとって「いないのと一緒」だった。もう、未練もなかった。
離婚を見越し、有紗さんは車の免許を取った。免許を手にしたその日、車で家庭裁判所に向かい、離婚調停を申し立てた。
「私はもう、何も要らないから離婚したいと訴えて……」
3回の調停で、離婚は成立した。慰謝料なし、養育費は3人合わせて月6万円。
「調停の時に、元夫が自分の給料明細を持って来たんです。手取りで50万でした。なのに、毎月8万しか渡さなかったわけです。調停では『会社に毎月、30万の借金を返済しています』という証明書を出したけど、何とだってなるもん、身内の会社だから」
一家の大黒柱として新たな一歩を踏み出す
離婚後、すぐに家を出た。売っても借金が残る家。「ローンを払うなら、家をやる」と言われたが、夫の会社の近くに住む気はなかった。公営住宅に応募したが、落選。不動産屋を回って直面したのが、「母子家庭、お断り」という暗黙の掟だった。
「私の父が保証人になると言っても、どこに行っても、『母子家庭はお断りです』。散々回って、ようやく借りられた物件が家賃9万。高かったけど、もう、どうしようもない」
親子4人、新生活の拠点はできた。長男が小4、長女が小3、次男はまだ小1だった。専業主婦から一転、一家の大黒柱として働かないといけない。35歳の時だった。看護学校に通っていたことがあったため、近所の病院で看護助手として勤務することにした。パートで時給800円、これだけでは暮らせないので、独学で技術を習得し、有料でホームページを作成することにした。
「専業主婦時代に景品でパソコンが当たって、そんなに普及していない時代にパソコンは持っていた。当時、ホームページ作成のソフトもない、HTMLという言語を書いてホームページを作る時代で、作れる人があまりいなかった。なので結構、いいお金になったの。HTML言語はもちろん独学。2ヶ月ほどかけて1つ作って、30万とか。依頼もけっこうあった」
児童扶養手当も、大きな支えだった。当時は年3回、4ヶ月分をまとめて支給されるのだが、3人で20万ほどになり、貯金をできるだけ心がけた。元夫は裁判所の取り決めには従ったので、月6万円の養育費は途切れることはなかった。
少しまとまったお金ができたので、有紗さんは手に職をつけようと、整体師の学校に通うことにした。ホームページ作成でいつまで稼げるか、先が見えないからだ。選んだのは入学金なし、年会費36万円の専門学校。整体師の国家資格を取るため、病院勤務を午前中だけにして、午後は学校に通う日々を1年送った。
「好きな仕事だって思いました。だから、覚えて行くのが楽しかったです。夢は独立開業でした。就職して腕を磨いた後、開業しようと」
3年後、有紗さんは郊外にワンルームの部屋を借り、癒しの場をオープンした。整体師として、身体だけでなく、クライアントの心の疲れも癒していきたいと新たな一歩を踏み出したのだ。
学費は親が払うもの
「子どもが義務教育の時までは、何とかなっていました。だけど高校、3人とも私立だったんです。長男は公立を落ちて、次男は中学で不登校だったから仕方なく。娘はここに行きたいと、自分で決めて」
長男の学費は修学旅行代も入れて、年100万円。元夫に相談したら、一蹴(いっしゅう)されて終わり。
「公立に落ちるのが悪い。オマエの教育がなってないからだろう。オレは知らん」
しょうがないので、姉に100万円を借りた。
「がむしゃらに働いて、姉に少しずつ返しながら、2年と3年の学費は自分で払いました。児童扶養手当やホームページでお金が入った時は、貯金していたので」
長男より1歳下の長女が選んだ高校の学費は、年間55万円。
「この時は、県がやっている母子貸付金を借りました。無利子なんです。次男もこの貸付金を利用しました。次男は長男と同じ高校に行ったので、年100万ですね」
母子父子寡婦福祉資金貸付金という制度があり、有紗さんは「修学資金」を利用した。
3人とも生まれてすぐに郵便局の学資保険に入ったものの、元夫が家を購入する際の頭金として全て使ってしまっていた。
「学資保険を解約していなかったら、ラクだったと思います。3人とも、500万円のに入っていたから、これがあったら……」
母子貸付金の保証人には、元夫がなった。保証人の収入欄に書かれていた数字は、「月収600万円」。
「私、びっくりして、子どもに『間違ってるんじゃない? パパに確認して』って言ったら、本当だった。なのに、自分の子の学費にはビタ一文、払わない」
ただしこの時は、有紗さんだけの稼ぎで何とかなっていた。整体サロンも固定客が増えて軌道に乗ってきており、有紗さんは生活を切り詰め、必死で貯金した。まだ40代、ハードな仕事だが、結構、無理がきいた。
子どもには母子家庭だからということで、惨めな思いはさせたくない。両親がいる友達と同じような暮らしを保障したい。念じていたのは、それだけだった。
「離婚して、精神的にはすごくラクになったんですが、うちは子どもの反抗期がすごかった。特に、次男が……」
ようやく入った高校だったが、結局、次男は不登校になってしまった。
「バカだから、ピアスして行ったのよ。教師から『ピアス、外しなさい』と叱責されてから、休みがちになって。それでも部活には頑張って行ったら、顧問から『授業に出てないもんが、部活に来るな』って怒鳴られて、そこから完全に不登校。これが1学期だったの。おかげで次男の貸付金は、100万で済んだけど」
不本意な状況に苛立ちを隠せない次男は、鬱憤をぶつけて行く。
「壁に、穴がどんどん開いて。私も仕事がない時は家に次男といるから、結構、地獄でした。反抗期だからしょうがないと思うしかなくて。3人の中で一番話したのは、次男なんじゃないかな」
「母子家庭」という言葉に、どんなイメージを持つだろうか。シングルマザーが子育てを終えたあとのことにまで思いを致す読者は、必ずしも多くないのではないか。本連載では、シングルマザーを経験した女性たちがたどった様々な道程を、ノンフィクションライターの黒川祥子が紹介する。彼女たちの姿から見えてくる、この国の姿とは。