ホルモン焼きの歴史が「差別と偏見をどう乗り越えるか」を教えてくれる
あちこちの飲食店で酒を飲み、街を歩いて、鶴橋がどんどん魅力的に思えてくるが、一方で、そこに横たわる歴史の重たさにどのように触れていいものか、私は分からずにいた。そしてそんな折、「水キムチあらい」主催の「鶴橋~御幸森コリアタウンフィールドワーク」というイベントが実施されるということを知った。
鶴橋をよりよく知る上で貴重な機会だと思ってそれに参加したのが2023年3月26日のことだった。JR鶴橋駅の改札前に20名ほどの参加者が集い、多民族共生人権教育センター事務局長で在日コリアン3世の文公輝 さんの案内で鶴橋駅周辺のアーケード街を歩いた。
その日はあいにくの雨で、当初の予定よりも散策エリアをだいぶ限定してのフィールドワークとなったが、鶴橋の歴史を深く知る人に案内してもらう街は、当然ながら今までとはまったく違って見えてくるのだった。フィールドワーク終了後、参加者が「多民族共生人権教育センター」の一室に集まって話し合う時間があり、そこで私は文さんと連絡先を交換し、後日改めて取材させて欲しい旨お伝えしたのだった。
それからあっという間に月日が経ち、その取材が実現したのは2023年8月半ばのことだった。もう一度、文さんに鶴橋の街を案内してもらいながら、ゆっくりとお話を伺うことにした。
文さんは、ご自身が務める多民族共生人権教育センター関連の仕事で、鶴橋をガイドして歩く機会がよくあるのだという。そしてそういう時は、必ず、JR鶴橋駅前の千日前通から案内をスタートするという。それは、2013年2月と3月、この場で韓国・朝鮮にルーツを持つ人々に対するヘイトスピーチ・デモと街宣が行われたからだった。
文さんは言う。「ここが、2013年2月24日、ヘイトスピーチ街宣、ヘイトスピーチデモの舞台となった場所です。鶴橋の玄関口であるこの駅前で、多くの在日コリアンが住んでいるこの町の、多くの人が集う場所で、悪質な街宣デモが行われたんです。向こうに回転寿司店が見えますよね。あのあたりで、20人~30人のヘイト団体のメンバーが旭日旗を掲げて、拡声器を使って『ゴキブリ朝鮮人を叩き出せ』『鶴橋大虐殺を実行しますよ』といったことを叫びました。生野区内の、ある公立中学校は生徒の3分の1ぐらいが在日コリアンなんですが、その半分ほどの子どもたちが、鶴橋駅前でのヘイトスピーチ街宣を見たと、その後に学校で提出した作文に書いていました。その子たちだけでなく、その時に傷ついた気持ちを今も引きずりながら生きている在日コリアンがこの街にたくさんいるだろうと思います」
「また、その日はヘイトスピーチ街宣が行われた日であると同時に、初めて大規模なカウンター行動が呼びかけられた日でもあるんです。ヘイトスピーチ、ヘイトデモを行っている団体に対して、カウンター側が詰めかけて、直接声をあげる人もいれば、プラカードを掲げて抗議をする人もいました。在日コリアンの人権問題を考える上で、今もヘイトスピーチは大きな課題です。ですから、その原点ともいえるこの場所からいつもスタートしているんです」
それから、文さんは、駅の西側へと歩き出した。そして、前述した「ようこそ!焼肉聖地」の看板がある、駅前の、焼肉店のひしめく一画で足を止めた。
「ここがいわゆる焼肉ストリートと言われる場所で、鶴橋というとこのあたりがテレビで紹介されることが多いんですけど、それほど広くないエリアに数十軒の焼肉店がひしめいています。焼肉店がこれだけこの場に集まっているのには歴史的な背景があります」と、文さんが語ってくれたのによると、鶴橋駅の高架は戦前から「大阪電気鉄道(その後、「関西急行鉄道」と商号を改めている)」という、近鉄の前身となる鉄道会社が運営する形で存在していた。
重要な交通インフラである高架鉄道は、戦時中、空襲の標的になることが懸念された。高架の周囲が空襲を受け、延焼によって鉄道に被害が及ぶのを避けるため、政府は高架の周辺の民家や商店を取り壊す“建物疎開“を進め、“防空空地帯”と呼ばれる空き地を作らせた。戦争が終わり、駅周辺に空き地が残ると、そこに闇市が形成されていく。近鉄の路線(1944年には近鉄が事業を引き継いでいる)は、鶴橋から奈良、そして三重へと通じているため、伊勢・志摩で獲れた海産物など、闇市で売るための物資を運ぶのにも都合がよかった。鶴橋の闇市は当時の大阪でも有数の規模を誇るものになっていく。
「闇市では、様々なものが売り買いされているわけですけど、その中の一つの商品として、朝鮮半島出身者が昔から食べていたホルモンの直火炙り、いわゆるホルモン焼きが売られるようになるんです。店舗を構えて提供するわけじゃありませんから、かんてき(七輪)で炙った牛の内臓を串に刺して、焼鳥のような形で提供していた。そういうスタイルで、朝鮮半島の伝統的なホルモン料理が、日本人に対して、売られ始めたんです」と文さんは語る。
当時の日本においてまだ一般的な食材ではなかった牛の内臓の串焼きは、鶴橋の闇市の名物として人気を集めるようになる。
「朝鮮半島出身者にとっては当たり前に食べていたものですが、『あんなものが日本人の口に合うわけがない』という偏見、見下しの対象になっていたんです。それが、お腹をすかせて闇市にやってきた人たちがホルモンを焼く匂いに出会って、そして匂いを嗅ぐと『うまそうやな』と思うわけですね(笑)。見れば白いふにゃふにゃしたもので『食べたことないけど、うまそうやから食べてみようか』と、思い切って食べてみるとうまい。そのような出会い方で、日本の人たちに朝鮮半島のホルモン焼きの文化というのが伝わっていくわけです。そこから、戦前は路地裏で朝鮮半島出身者を対象に営業していた「朝鮮料理屋」が、表通りで日本人も対象に営業する「焼肉屋」と名前を変え営業するようになっていくんです」
「そのようにこの地からホルモン文化が広まっていった過程にヒントがある」と文さんは言う。「差別とか偏見というものは、実際に体験してみることで乗り越えることができるものなんだということがすごく物語られているような気がしているんです」と。
1988年に韓国の首都・ソウルでオリンピックが開催されると、改めて日本国内でも韓国の文化に対する注目が高まった。その流れを受け、鶴橋は「韓国に行かずとも韓国文化に触れられる場所」として、一気に観光地化されていったという。文さんが鶴橋を初めて訪れたのがまさにその直前だったそうだが、意外にもその頃はまだ、今のように駅前に韓国食材を売る店がひしめくような状況ではなかったのだという。
「商店街が今のような雰囲気に変わっていったのは1988年以降ですね。観光客が増えて、それに応えるように店が増えていったんです。私は兵庫の田舎で日本名を使って、韓国人であることを隠しながら生きてきた人間だったんですね。それが大阪の大学に通うようになり、在日コリアンの同級生たちに連れられてここに来たら、今ほどではないですが焼肉屋さんがあって、チョゴリを売る店があって、みんなルーツを隠してないことに驚いたんです。隠さずにやって、しかも儲かってそうやなと(笑)こんな世界があるんだなと、価値観が180度変わった経験でした」
2014年から大阪に移住したライターが、「コロナ後」の大阪の町を歩き、考える。「密」だからこそ魅力的だった大阪の町は、変わってしまうのか。それとも、変わらないのか──。
プロフィール
1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『QJWeb』『よみタイ』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、パリッコとの共著に『のみタイム』(スタンド・ブックス)、『酒の穴』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)がある。