「透徹した認識」を持った画家、ゴヤ
このスペインの「不十分さ」を、どう受け取ることができるだろうか。
サラマンカにきてから読み始めた本の中にうなずかされる箇所があった。この本は留学に来る前に祖母から薦められた、作家の堀田善衞による著作『ゴヤ』の第1巻である(全4巻だが、すべては持ってこられなかった)。堀田がスペインの画家であるゴヤの生涯を取材し、画家が生きていた当時のスペイン社会の背景まで含めて書いた大作の評伝だ。スペインという国を貧しさや飢えといった、欠乏感から捉える視点がいくつも書かれており興味深い。とくに堀田善衞が「スペイン人の眼」と呼ぶ事柄にいまにつながる要素があると思った。
堀田は、荒れ果てたスペインの農村、若者も大きな街へ出稼ぎに行ってしまい、なかば見捨てられた、「ごろた石だらけの田舎」へ入り、そこで「貧しい農民の、そのスペイン人の眼」で睨みつけられたことのない人は、この国について何かを見たことにはならないだろう、と書く。
そういう村で、たとえば黒い服をまとった皺だらけの老女にぎらりとひと目、斬りつけるような眼つきで見られたとしたら、その視線の意味するところは、いかに鈍感でも、さとらざるをえないのである。飽食している者に斬りつけて来る、飢えた者の眼である。
『ゴヤⅠ』(2010年、集英社文庫)67頁
堀田はべつの箇所では、スペインは、他のヨーロッパ諸国のように近代化へと歩むことができなかったとも書き、画家ゴヤは「そうした“遅れた”状態」「中世がいつまでも生きつづけている社会」で「人間のやらかすこと為すことについての透徹した認識」を持った芸術家である、と述べている。
ぼくが堀田の指摘に惹かれたのは、スペインが、「飢えた者の眼」に表されているように実際の生活上の「不足」を人々が経験してきた場所であるとともに、もう一方では「近代化の遅れ」といった抽象的、政治的な面でも「不足」を経験した場であったこと。また、そうした国でこそゴヤという独自の認識を持つ画家が現れたことを示しているように思えたからだ。
30歳を目前にして日本の息苦しい雰囲気に堪え兼ね、やむなくスペインへ緊急脱出した飯田朔による、母国から遠く離れた自身の日々を描く不定期連載。問題山積みの両国にあって、スペインに感じる「幾分マシな可能性」とは?