このように言うと、アンドリが嫌な奴のように聞こえてしまうが、歴史的にはウクライナではウクライナ語のほうが虐げられた言語だった。
ロシア帝国時代(1721−1917年)の終わり頃には、ウクライナ民族運動を抑え込むため、ウクライナ語での出版や教育を禁止する命令が出されていた(*3・4)。
(*3)1863年からウクライナ語による宗教・教育関連書物が出版禁止になり、1876年からあらゆるウクライナ語の出版、授業が禁止された。
(*4)また19世紀後半には、南部やドンバス地方などに、工業化や炭鉱・冶金産業を担う労働者がやって来て、ロシア語文化が広まった。
1922年にソビエト社会主義共和国連邦が成立し、ウクライナもその下に入ったが、基本的に状況は変わらなかった。
ソ連時代初期の頃には民族主義が奨励され、50年代、60年代、また80年代終わりにはウクライナ化が実現したこともあった。しかし、常にウクライナ化はソ連にとって脅威になるとされ、ロシア化が推進されていた。ウクライナの知識人への弾圧が行われ、再びウクライナ語の教育や出版がロシア語に取って代わられた時期もあった。禁止されればされるほど、ロシアへの反発は生まれ、国内での民族意識は強まっていった。
言語の問題に加えて、ウクライナでの反ロシア感情を決定づけた出来事がある。
ソ連政府は、1932年から1933年に「ホロドモール」と言われる人為的な飢饉をウクライナで引き起こした。農業を集団化し、輸出して外貨を獲得するために農業収穫物を徴発した。これにより、400万人以上が餓死したのだ。背景には、独立意識の強いウクライナ人の力を削ぐ意図があったとも言われる(*5)。
(*5)犠牲者数については250万から1000万人と諸説ある。
1991年にウクライナはソビエト連邦から独立した。
独立後の歴史は、ソ連の親玉であったロシアや欧米との関係をどうするか模索していく歴史でもあった(*6)。
(*6)一時期、経済的な理由などからロシアと再び接近することもあったが、民主化を求め、賄賂ではなく欧州のように法律に則った社会を求める動きも広まった。
2004年にオレンジ革命が起きる。ウクライナ大統領選挙で不正があったとして、首都キーウで抗議行動が行われた。そして選挙がやり直された結果、欧米寄りとされるユーシチェンコが大統領に就任した。
ユーシチェンコはウクライナ語化を推進し、クリミアなどの住民が享受していた「法廷でロシア語を用いる権利」をなくそうとしたこともあった。だが、全体として改革はうまくいかず、経済危機を背景に2010年には対ロシア関係を重んじるヤヌコービッチ政権が成立する。
しかし再び、2013年から2014年にユーロマイダン革命が起きた。ロシアの圧力もあり、ヤヌコービッチ政権はEUとの関係緊密化に繋がる協定を棚上げし、これに怒った人々が抗議を行ったのだ。
民主化を求める大学生から年金生活者まで10万人の一般市民が全国からキーウの独立広場に集まり、連日抗議行動を行った(*7)。デモ隊を鎮圧すべく治安部隊が出動し、またデモに参加するグループの一部にも武装した人々がおり、双方に死者が出た(*8)。最終的には、ヤヌコービッチは去り、ロシアとは距離を置く政権(親欧米政権)ができた。
(*7)ネオナチに似た過激思想を持つ人もいる極右政治団体が抗議行動に参加していたのは事実だが、どれほどの影響力が実際にあったかについては論者によって見方が違う。ただし、数として大きな力を持っていたのは一般市民であり、極右勢力だけが取り仕切る運動ではないことは言えるだろう。
(*8)2014年2月18日から20日までの死者は、デモ隊で100人以上に及び、治安部隊側でも二桁に至っている。
ロシアによる侵攻で「戦地」と化したウクライナでは何が起こっているのか。 人々はどう暮らし、何を感じ、そしていかなることを訴えているのか。 気鋭のジャーナリストによる現地ルポ。
プロフィール
1985年三重県出身。2011年東京大学大学院修士課程修了。テレビ番組制作会社に入社し、テレビ・ドキュメンタリーの制作を行う。2013年にドキュメンタリー映画『ファルージャ ~イラク戦争 日本人人質事件…そして~』を監督。同作により第一回山本美香記念国際ジャーナリスト賞、第十四回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞を受賞。その他、ベトナム戦争や人道支援における物流などについてのドキュメンタリーをNHKや民放などでも制作。2018年には『命の巨大倉庫』でATP奨励賞受賞。現在、フリーランス。イラク・クルド人自治区クルディスタン・ハウレル大学大学院修士課程への留学経験がある。