■魔のサルティウカ地区
緊張していたはずなのにサルティウカ行きの車中ではウトウトしてしまった。ご飯を食べると眠くなるのだ。この能天気な性格を喜ぶべきか、反省すべきか。
オレクセイとその仲間2人を乗せた車の後を走る。20分ほどの道のりだった。広々とした並木道と団地が広がる。ハルキウ中心部では車は少ないながら走っていたが、このあたりはもぬけの殻といった感じがする。
たどり着いたのは日本で言うところの「市営住宅」のような建物だった。どの建物も人気がない。多くの人がこの地区を去り、残っているのはお年寄りがほとんどらしい。
「あそこが砲撃された跡だよ。撮影しに行きたい?」
オレクセイの仲間が提案してくれた。見ると建物の一部が黒く焦げている。ロシア軍の攻撃があったのだ。
しかし、なんとなく嫌な感じがしたので「支援物資を運ぶのを優先してください」と答えた。その判断が正しかったと私は直後に知ることになる。
『ヒュゴーーーーーー』
頭上を何かが飛ぶ音がした。誰かがミサイルだと言い、別の人が飛行機だと言った。よりによって私たちがいる時に!
今から思えば、これが始まりの合図だった。
物資を持って建物の一つに入った。ここに住む家族に発電機を届けることになっていたのだ。階段を駆け上がる。人がいるはずの場所で、人の気配がないということがこんなにも不気味なのかと感じる。その時だった。
『ゴーン、ゴーン』
砲撃が始まったのだ。体の内側に砲弾が発射された振動が伝わる感じがする。近い。心臓がバクバクするのは、恐怖からか、7階まで階段を駆け登っているせいかはわからない。できれば階段のせいだと思いたい。
訪れたのは、年配夫婦と脳性麻痺の娘さんがいる家だった。娘さんは窓際のベッドで横になり、お母さんは壁際に不安そうに立っていた。
オレクセイは発電機の動作確認をしている。
いつ砲弾が当たってもおかしくはない気がした。自分がこんな渦中にいることが信じられなくて、震えないようにしながらただ息を呑んで目の前の光景を見る。
『ドーン』
また砲撃だ。雷のような音。さっきよりも大きい。恐怖とともに我に返った。取材しないといけない。
「このあたりの状況はどうですか?」
「30分おきに発射されているんです。夜中の攻撃が酷くて、午前4時まで攻撃があります」
日に2−5発というのは記録上のことで、実際にはもっと頻繁に攻撃が行われているようだった。
「避難することは考えていませんか?」
「避難したいとは思っています。でも娘のことがあるし簡単にはいかないんです」
その質問をした直後だった。
『ゴロゴロゴロ』
遠くで雷が鳴るような音がいくつもした。次の瞬間、頭の上で炸裂するような音がした。
『バシャーン、ビシャーン、バシャーン、バシャーン』
縮こまるお母さん。自分のいる世界が一瞬、ぐしゃっと潰されたような感じがした。最初の『ゴロゴロ』や『ドーン』という音は砲弾が発射される音で、『ビシャーン』というのが着弾して何かが破壊される音のようだ。
オレクセイはサンルームで発電機を発動させようとしている。彼は砲撃があっても、ちょっと部屋の中に戻っただけで、また作業を続ける。怖がって時間を無駄にできないほど、彼にとってはもう日常になってしまったのか。彼の感覚が狂っているのか、あるいは戦争が狂っているのか。
発電機がようやく動いた。
我々はこの場を去ることにした。自分たちだけ急いで去ることに罪悪感を覚える。見送ってくれたお父さんとお母さんの両手をぎゅっと握る。
ロシアによる侵攻で「戦地」と化したウクライナでは何が起こっているのか。 人々はどう暮らし、何を感じ、そしていかなることを訴えているのか。 気鋭のジャーナリストによる現地ルポ。
プロフィール
1985年三重県出身。2011年東京大学大学院修士課程修了。テレビ番組制作会社に入社し、テレビ・ドキュメンタリーの制作を行う。2013年にドキュメンタリー映画『ファルージャ ~イラク戦争 日本人人質事件…そして~』を監督。同作により第一回山本美香記念国際ジャーナリスト賞、第十四回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞を受賞。その他、ベトナム戦争や人道支援における物流などについてのドキュメンタリーをNHKや民放などでも制作。2018年には『命の巨大倉庫』でATP奨励賞受賞。現在、フリーランス。イラク・クルド人自治区クルディスタン・ハウレル大学大学院修士課程への留学経験がある。