殴打事件
地下鉄の駅からCHOPのなかを通り過ぎて民泊へ向かう。案外、小さな範囲だというのが第一印象だ。南北に4ブロック、東西に3ブロック、その中心に公園があり、100基ほどのテントが所狭しと並んでいた。北の端から南の端まで歩いても15分ほど。その中に小さな菜園が見えてトマトなどが作られていたが、「これではおママごと程度だな。自給自足には程遠い」と感じた。
スーツケースを引きずりながら歩いているので、話しかけてくる人も多く、フェス的な明るいノリで、ペットボトルの水をくれたりする。BBQを焼いて振舞う人もいた。昨日、ひとり銃殺されているとは思えない明るさがあった。高江の座り込みテントに全国から1000人規模の人が集まった、あの2016年の雰囲気をなんとなく思い出した。
5分ほど離れた場所にある宿に荷物を置き、カメラだけを持って再びCHOPへ向かう。所々、撮影NGの場所もあったので、まず初めは生配信せずに様子を見ようと思った。今考えると、これが裏目に出たのだ。
CHOPのゲートから内部に入る時、見張り役のボランティアスタッフの男性に日本から来た事などを話し、撮影についての留意点を聞く。銃は持っておらず、護身用にナイフだけを持っていると彼は語った。連載1回目で訪れたミネアポリスのジョージ・フロイド殺害現場のゲートが自動小銃で自衛していたことを考えると、だいぶ手薄に感じた。 内部に入り、写真を撮りながら歩く。もぬけの殻になった警察署のPoliceの部分がPeopleに書き換えられているのが象徴的だった。通行止めのために置かれたブロックにもカラフルなグラフティが施されていた。
21時をまわり夕暮れ時だった。15分歩いた頃、私は話しかけてきた黒人男性にいきなり顔面や腕を5、6発殴打された。混乱して「ヘルプ!」と叫びながら100mほど走って逃げると、ボランティアスタッフたちが駆け寄ってくる。事情を聞いて、氷の入ったビニール袋などを持ってきてくれた。20名ほどの人が集まって話を聞いてくれ、僕を落ち着かせるためにハグをしてくれる人もいた。apologizes(謝罪する)という言葉が印象に残っている。心から謝罪を示す人ばかりだった。
「ここには今、いろんな人がいる。ドラッグやアルコールでinsane(狂っている)の人間もいる。本当に申し訳ない」
誠意のある対応を感じた。病院に行くなら自分が車を出すよ!と名刺をくれる人もいた。どうにか冷静さを保ち、氷で顔を冷やしながら来た道を帰ると、さっき話したばかりの人々が「いったいどうしたの? 大丈夫?」と駆け寄ってくる。「殴られたよ」と言うと、黒人の家族づれがとても心配してくれて、とっさに「BLM」と書かれたマスクをくれた。困っている人間に手厚くすること。それは人間の思想よりもっと深い部分にあるやさしさのように感じた。香港で催涙ガスにむせている僕に目薬や水をくれた13歳の少女や、辺野古のゲート前で僕に梨をむいてくれた沖縄のおじい様おばあ様を思い出した。
入り口のゲートでさっき会話したボランティアの男性が、驚いて話しかけてくる。事情を話すと、表情を歪めて「守れなくてすまなかった……」と言った。顔も体も痛くて、口を開けて話すこともしんどかったけれど、殴られた後の皆の対応によって、ここにいる人々が暴力を肯定する存在ではないとわかったので、僕は「たぶん明日もくるよ!」と親指を立てて言うと、「本当にうれしい。ありがとう」と彼が言って、ひじとひじをタッチして挨拶を交わした。
宿までの帰り道でよろけながら動画を撮り、この事件の話をしてSNSにアップした。それが日本や世界から恐ろしくネガティブな反響を生むとは、その時は思いもよらなかった。
殴打事件直前直後のtweet
#CHOP に来て15分でボコボコに殴られました。
今日は帰ります。#Seattle pic.twitter.com/EneUbLaGao— 大袈裟太郎/猪股東吾ᵒᵒᵍᵉˢᵃᵗᵃʳᵒ (@oogesatarou) June 22, 2020
宿に帰り、殴られる直前に撮った写真を見返していて気づいた。「誰のために闘うのかを忘れるな」「なぜここに来たか、忘れるな」。すでにCHOP内にそんなメッセージが目立っていたのだ。これはフラグだったかもしれない。自治区の宣言から2週間たち、本来のプロテストの意味を問い直さなければならない状態に、この頃のCHOPはなっていたのだ。
そう考えると、僕が殴られたこともこの流れを知る上での重要な1シーンだったように思う。実際に僕が殴られてから10日で、このCHOPの自治区は終焉を迎える。顔面の痛みを堪えながら、世界中からの誹謗中傷と、銃撃の恐怖に怯えながら、僕はその最後の10日間を見つめることとなった。この殴打事件の深夜もCHOPに対し銃撃があり、ひとりが負傷したのだ。
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